松沢呉一のビバノン・ライフ

どちらも間違いではないのだけれど—廓と郭・遊廓と遊郭[上]-[ビバノン循環湯 411] (松沢呉一) -2,797文字-

「遊廓/廓」か「遊郭/郭」かについては、「遊廓の誤用-「吉原炎上」間違い探し 2」にも簡単に書いていますが、メルマガ「マッツ・ザ・ワールド」でもう少し詳しく論じたことがあります。結論を言えば「どっちでもいい」ということなのですが、歴史的経緯や常用漢字という観点、引用内との不統一を避けるという観点から考えると、けっこう面倒な話です。

 

 

 

「遊廓」か「遊郭」か

 

vivanon_sentenceゆうかく」は、「遊廓」「遊郭」の二種の漢字があります。「」も「」も、「くるわ」であり、意味は同じで、「色里」「色町」の意味。近代に入ってからは「公娼」です。「廓」と「郭」は交換可能ですが、 私は通常「廓」「遊廓」を使ってます。

「郭」は城郭の「郭」ですから、堀や塀で囲まれた一画を広く意味するニュアンスが強い。対する「廓」も同様の意味でありますが、こちらは今現在「くるわ」の意味でしか使いませんので、「郭」より「廓」の方が意味がくっきりする印象があります。

なおかつ、「まだれ」は「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」など、建造物とそのパーツや周辺のものに使い、そこから「」のように、そこでの人の行動についても使います。

「郭」だと城壁っぽいものをイメージさせ、「廓」だと、それに加えて、建物やそこにいる人までをイメージさせるので、私はもっぱら「廓」「遊廓」を使用しているわけです。とりわけ「くるわ」の場合は「廓」がしっくり来ます。

これは個人の趣味、感覚の問題であって、どっちだってよく、「郭」「遊郭」が間違っているという話ではありません。私が「廓」「遊廓」と書けば済むだけのことですから、他人の表記に口出しはしません。

議論する意味のあるケースも考えられるのですけど。表記は多くの場合、個人の趣味の問題であり、個人の感覚が支配するものでしかなく、自分が受け取っている印象を他人が受け取っているとは限らないですから、他人のことはほっといて、自分で実践するのが正しい姿勢です。

※十返舎一九作・画『廓の意気地』 (享和2 [1802])の題簽。オリジナルの題簽ではなく、改装時のものと思われる。オリジナルの題簽は下に出したもの。

 

 

表記統一のルール

 

vivanon_sentence しかし、そのような趣味の問題だけじゃなく、私が「廓」の文字を使うのは、もうひとつ事情があります。表記統一の問題です。

本や雑誌の校正では、誤字、脱字の類いをチェックするのはもちろん、表記を統一するのもそれなりに重要な作業になります。同じ文中で複数の表記を併用することを印刷物では嫌います。意味が特にない限り、同じ文章中で、「廓」「郭」の併用を避けるわけです。漢字と平仮名の併用も嫌う。「付き合う/つき合う/つきあう」「カタカナ/かたかな/片仮名」「わたし/ワタシ/私」「ぼく/ボク/僕」など、「あえて」の意味がない限り、どれかに統一するのが通例です。

単著の場合は、引用文を除いて全部揃えることが多いでしょう。揃ってないのはみっともないという感覚が校正者はもちろん、編集者にも書き手にもあります。

私は、「近いところ、例えば同じページで不統一があるのはおかしいが、離れていたら気づかないので、バラバラでいいべ」「それぞれその文脈での適切な表記があるので、雰囲気でバラけていていいべ」とも思っているのですが、「遊廓」「遊郭」といった漢字については統一した方がいいと感じます。この漢字については私は離れていても不統一に気づくので。

 

 

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