松沢呉一のビバノン・ライフ

ヘイトスピーチという言葉さえ知られていなかった頃—ネトウヨ春(夏)のBAN祭り[2]-(松沢呉一)-2,887文字-

ワールドカップとBAN祭りを振り返る—ネトウヨ春(夏)のBAN祭り[1] 」の続きです。

 

 

 

BAN祭りをもって他の行動を否定することはできない

 

vivanon_sentence「BAN祭り」が成果を上げていることをもって、「しばき隊やC.R.A.C.は無能」などと嘲る人たちがいますが、底辺ネトウヨなみに無思慮です。

しばき隊は路上でのヘイトスピーチを潰すために集まった集団であって、「とにかくヘイトデモをなんとかしようぜ」という言葉がよく聞かれ、私も「ルノワールの会議室でやる分には放置でいい。しかし、誰もが目にし得る場所でのヘイトスピーチは許しがたい」といったことをよく言ってました。

そこから今度はヘイトデモ参加者の特定をしたり、直接話して説得を試みたり、蹴ったり殴ったり、蹴られたり殴られたり、裁判をしたり、パレードをしたり、イベントを開いたり、メディアと連携したり、行政と折衝したり、宴会やったりといった活動に広がっていきます。

やらんでいいことをやった人たちがいたとは言え、また、私には同意できない点もあるとは言え、成果は残しているわけですし、ヘイトスピーチ対策法制定にも一定の寄与はしています。少なくともその土台になる世論を醸成しました。

もう忘れている人もいそうですけど、しばき隊が活動を始めた頃は、「ヘイトスピーチ」「ヘイトクライム」という言葉さえ浸透してませんでした。だからこそ、「ヘイトスピーチ」は2013年の流行語大賞の候補にもなりました。そのことを否定したい人は、「差別表現」「煽動表現」「憎悪犯罪」といった言葉を使った方がよくないか?(それ以前から少しは使われていましたから、あくまで皮肉ね)

メディアもしばらくの間、ヘイトデモをどう取り上げていいのか迷っていたくらいで、その時のことを思い返せば、今とはまったく状況が違っていたことがわかるはずです。騒ぎを起こすことによって、メディアはヘイトデモを取り上げられるようになったのです。

だからといって、しばき隊から始まった行動のすべてを肯定する必要などあろうはずはなく、批判すべき点は批判すればいいのですが、やらなかったことをもって他者を批判することができるのはやった人だけ。

 

 

やらなかったのはすべての人

 

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「BAN祭り」に参加している人たちはさまざまな立場、流れで参加しているので、どういう層がどの程度いるのかまではわかりようがないですけど、カウンターに参加していて、現在は「BAN祭り」に参加している人たちもいて、人的にもある程度つながっているようでもあります。

しばき隊批判を見かけることもありますが、それは、けんま関連のスレッドで「しばき隊は優し過ぎた」という批判です。容赦なく潰すべきだったと。

「BAN祭り」関連のスレッドでは、「BAN祭り」を利用して他者を批判する人たちはしばしば「冷笑派」として蔑まれていることを見ておいた方がいいと思います。

路上でのカウンターをやっている人たちはそれだけで手一杯。裁判をやる人たちはそれだけで手一杯。それぞれにできることをやっていたのであって、むしろ、そういったことをしていなかった人たち、とくにカウンターのような行動を嫌う人たちが「BAN祭り」をやればよかったのです。

また、「BAN祭り」の成果は、YouTube側の対応の変化によるところも大きく、それはGoogleも認めている通りです。「なぜやらなかったのか」はGoogleに問うべきかと思います。

それまでに同じことをやったところでこの成果は得られなかった可能性が高く、対応が変化して以降は、誰がやってもよかった。「なんでやらなかったんだ?」という問いはまっさきに自分に向けるべし。

ただし、今現在できることがなおあることが「BAN祭り」ではっきりした以上、「刑事罰がないので、ヘイトスピーチ対策法では効果がない。刑事罰の導入を」と言っている人たちの主張は説得力がないと思います。

 

 

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