松沢呉一のビバノン・ライフ

自分が何者であるのかを正しく認識させる権利[資料編]-[ビバノン循環湯 427] (松沢呉一)-[無料記事]-4,468文字-

なぜ虚偽を容認してきてしまったのか—自分が何者であるのかを正しく認識させる権利[中]」に出てくるFacebookの投稿です。もしかすると、少しはFacebookに登録していない講読者がいるかもしれないので、こちらに再録しておきました。この投稿でだいたい言い尽くしていて、このあとのテーマにも密接に関わってきます。

 

 

2013年6月8日付Facebookの投稿

 

vivanon_sentence辞書的に言うと、元来、「差別」は、文字通り「差を明確にして区別すること」を意味します。古い本を読んでいると、この用法がよく出てきます。「男と女を差別する」みたいな文章。今でも「差別化」「無差別」という言葉にそれが残っています。

もうひとつの意味が、今現在使っている「属性によって不当に区別する」というものです。「属性で区別すること」と「不当性」が差別の要件になろうかと思います。

日本も批准している人種差別撤廃条約での定義。

 

 

 

人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するもの」が人種差別です。

この条約は人種差別撤廃を求めたものですから、範囲は「人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身」に留まり、それ以外の身体的特徴や性別などによるものを差別とはしていません。これを国内法として制定する場合、どこまでを含めるのかについては当然議論がなされることでしょう。

続いて、「不当性」はどこで判定されるのか。わかりやすい言葉で言えば平等に反するもの、公正さに反するものが差別だと言っていいかと思います。

当たり前のようでしょ。しかし、この当たり前のことが理解されていません。

差別についての話になると、「相手が嫌がることをしてはいけない」だの「傷ついたから差別だ」だのといったことを言い出すアホが必ずいます。「バカ」「アホ」と言うと、また「傷ついた。差別だ」と言い出すのがいる。豆腐の角で頭を打って死ね。百回死ね。

こういうことを言い出す人は私にとっては心底不快で、心底傷つくわけですが、それをもって「差別だ」と私は言わない。

どんなに人を不快にさせ、どんなに人を傷つける表現であろうとも、不当ではないもの、つまり平等や公正に反しないものは差別ではないのです。逆に誰一人傷ついていなくても、差別は成立します。差別か否かは社会的に判断されるものであって、特定個人の内面によって量られるものではありません。

「人が嫌がることをしてはいけない」というのは礼儀作法の話。差別と無関係。社会的構造のもとで成立する差別を、個対個の間で成立する礼儀作法のレベルに貶める人たちが問題がどこにあるのかを見えなくし、差別を容認しています。

「朝鮮人を殺せ!」に対して、しばき隊が「ヘイト豚 死ね!」と言う。これをもって「どっちもどっち」と言う人は「殺せ」と「死ね」を並べて「どっちもどっち」と言っています。どっちも礼儀作法に反するかもしれませんね。それがどうした。そういう話をしたければカルチャーセンターの「礼儀作法教室」にでも行くか、塩月弥生子の本でも読んどれ。古いな、また。

 

 

vivanon_sentenceこのことは「当事者性」という問題とも関わってきます。「当事者であることをどこまで重視するか」とともに「誰が当事者か」という問題。「弱者に寄り添う」みたいな耳障りのいい言葉を使う人たちがいるわけですが、しばき隊は当初から「マジョリティがマイノリティに手を差し伸べる運動」を乗り越えたところからスタートしています。あるいは乗り越える気もなく、それと無関係のところからスタートしている。「社会を構成する我々が当事者なのだ」として、社会を破壊するザイトクに対峙した。

しばき隊が新大久保に登場した時に、在日の間から「自分のことではないのに、なぜ」との声が出たり、韓国系の店から「ありがとう」というお礼の声が出たりしたわけですが、しばき隊はこの人たちのためにやっているのではない。そういう結果をもたらすとしても、それが目的ではない。「あんな連中は放置すればよい」という人たちは「自分らは被害者ではない」と思っているのでしょうが、それが大きな間違いであることをこの社会に突きつけたわけです。だから、これに呼応して、多くの人たちが立ち上がりました。そのことがまだ理解できていない人たちがいるみたいですけど。

この「当事者性」という問題については「オカマ論争」の時にも議論をしてました。差別されるマイノリティは救済の対象であることを否定するものではなく、発言が優先されることも否定するものではないのですが、差別を判定する絶対的な資格ではない。被差別者の判定を待たずして、社会の構成者は差別に反対していいし、すべきなのです。

「差別された当事者が差別か否かを判定する資格をもつ」という考え方のもっとも歪んだ例がザイトクです。「日本人を差別するな」「しばき隊に我々は人権を侵害される被害者である」と主張している。アホの極みですが、ああいう被害者意識を肥大させる土壌がこの社会にはあるんだと思います。

 

 

vivanon_sentenceザイトク同様に、ここを理解できない人がいっぱいいることが法規制の議論を遠ざけています。ヨーロッパ型のヘイトスピーチ規制法の保護法益は平等、公正、自由といった社会の基本理念になろうかと思います。これは正義と言ってもいい。正義を侵害する行為を罰する。対して、アメリカ型のヘイトクライムは被害者が存在する犯罪を重く罰する法律です。前者は表現そのものを罰するが故に表現の自由とのかねあいが問題となるわけですが、「何を守るのか」の考え方自体が違う。

両者の考え方はきれいに分離できるものではなく、密接に関係しているわけですけど、重きの置き所が違うし、法の成り立ちが違う。

この保護法益の違いは「強制わいせつ」と「公然わいせつ」を考えればわかりやすいかと思います。前者は被害者がいる。後者はいない。路上でチンコマンコを出したとして、見た人が誰一人いなくても、公然わいせつになる。その場にいる人が全員納得していようとも、ストリップ劇場やハッテン場では公然わいせつが成立するわけです。

ここを理解していないと、ストリップ劇場やハッテン場での公然わいせつ適用に対する有効な批判はできません。「被害者がいないのに」ではなく、「社会通念の変化によって、閉鎖的な空間にそれを了承する人のみが集まっている場でチンコマンコを出したところで社会秩序を破壊しなくなっている」と批判すべきです。

あるいは児童ポルノ法で考えてもいいでしょう。実在の児童を撮影したポルノは被害者が存在します。非実在の児童ポルノは被害者がいない。両者は法の成り立ちがまったく違うわけです。タイムリーなネタを入れ込んでみました。現在問題なのは単純所持ですけど。

この日本でヘイトスピーチの法規制をすると、「傷ついた」「マイノリティの前で言えるのか」「思いやりの心を」みたいなことを言って他者の言葉遣いや表現を封殺する輩が増長するのが目に見えている。これが法規制への大きな抵抗感になっていて、その抵抗感は故なきことではないのであります。それとこれとは別の話です。

私自身、いまなおヨーロッパ型のヘイトスピーチ規制法に反対なのは、ここに理由があります。法律の要件は厳しく定められるとしても、「私」が判定者になって、「傷ついた。どうしてくれる」と被害者意識を盾にして騒ぐ人々が必ず出てくる。それを見越して自粛するムードが広がって、言葉が使えなくなる。今だって雑誌では使えない言葉が多数あるのに、これがさらに広がる。

※もともとこれはイベントの告知用だったため、それに関する部分はカットしました。

 

 

2013年6月8日付Facebookの投稿 2

※上の投稿の続きで、togetterの「「在日認定」にどう答えるか」をシェアしての投稿。

 

 

 

 

vivanon_sentence「傷つけてはいけない」を主たる行動基準にすると(もっといえば金科玉条にすると)、ときに理屈を曲げなければいけなくなる。その曲げる理屈が自由や公正さに関係する場合、非常に不都合」という野間易通の言葉が的確にこの問題の在り処を指摘しております。

TLを見ると、「ハゲ」と罵倒された野間易通がそれを否定したことから始まっているわけですが、この発言は二つの側面から成立しています。ひとつは事実ではないこと。ひとつは身体的特徴をとらえて罵倒していること。

事実ではないことを指摘することによって、「ハゲている人がそれをどう思うのか考えろ」「ハゲている人がそれを聞いたら傷つく」という批判をする人は、「ハゲている人が傷つくこと」は絶対に避けなければならないと考えており、「デマによって誹謗中傷されても我慢しろ」と言っているに等しい。

デマによって人を誹謗することは、それ自体否定されなければならないことであり、事実でなければ事実でないと指摘していいのです。さもなければデマは訂正されることなく拡散されてしまい、ハゲを貶める発言は放置され、「ハゲている人がそれを聞いたら傷つく」という批判は、デマを拡散したい人に協力するだけではなく、ハゲを貶めることにも協力することになる。

この時に「ハゲのわけないやろ。ハゲになったら恥ずかしくて生きていけんわ」とまで言った場合には、身体的特徴をとらえて罵倒する相手の論理に乗ってしまっていて、これは批判されてよい。しかし、そうではない限り、「間違いは間違い」と指摘していい。

このことは刑事の名誉棄損裁判を考えればよくわかります。事実か否か、名誉を毀損したか否かのふたつの側面が争われます。事実ではないことを指摘すると、自動的にハゲている人を傷つけるんだったら、名誉棄損で訴えることもできなくなる。事実、名誉棄損で訴えることをここで躊躇う人が多いはずで、こうして虚偽による誹謗中傷がいつまでもなされてしまうのです。

ヘイトスピーチ規制法が成立したところで、ハゲがヘイトスピーチになるという定義は採用されないでしょうけど、これは差別的言辞にはつねにまとわりつく問題で、「お前は在日だろう」と言われた時に、どう答えるべきかにおいて、これまでは「在日を傷つけてはいけない」という論理が力を持ちすぎて、そのために「社会の自由や公正さを傷つけてはいけない」という論理がないがしろにされてきた。

前者を無視していいと言いたいのではなく、状況次第では「それは間違いである」と指摘しない判断もあっていいでしょうが、「デマはそれ自体、他者の人格を傷つけ、表現の自由をも傷つける」ということを意識すべきであり、それを意識すれば間違いを間違いだと指摘することはなされていいし、なされるべきです。と同時にその誹謗の論理を指摘していけばいいだけなのだと思います。「在日じゃねえよ。在日だとしたら、どうかしたか」と。

 

 

 

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