松沢呉一のビバノン・ライフ

言葉狩りに逆行する言葉—オールロマンス事件から言葉狩りまで[下][ビバノン循環湯 425] (松沢呉一)-3,761文字-

言葉が消えて表現内容にも影響—オールロマンス事件から言葉狩りまで[中]」の続きです。

 

 

 

萎縮効果のメカニズム

 

vivanon_sentence誰も文句をつけないとしても、ルールができるとそこに拘束されてしまうし、内部での自粛という名の規制が進む。

そのことは自分の実感としても理解できます。使っていい言葉だと思っていても、他人がそれをどう思うかを先取りしてしまう。同時に、その言葉が「差別用語」だと知っていることを他者に言いたい気持ちも出てきて、「きちがいはまずいだろ」と言ってしまったりする。そのことを知っている人に指摘されるのがイヤで、自分でも言わなくなる。

精神障害のある人に「きちがい」を使うのはまずいとしても、この言葉はしばしば「様子が尋常ではない」「熱心である」という意味で使用されてきました。「きちがい病院」といった俗な用法はあるにせよ、精神障害者を限定的に指す言葉だったことはないはずです。

公的な用語、医学的な正式の用語として採用されたことはなく、つねにその範囲ではない状態を指す余地がある言葉です。よって、すぐにこの言葉の使用は不可ということにならなかったのは合理的理由があるのだと思われます。

対象が精神障害のあることが認識されている人ではない場合に「きちがい」が何を指しているのか確定させることは難しいのです。言い換え集にあるように、「マニア」という意味で使用していることが多かった言葉でもあったのに、タブへーの領域に入れられることで、それらの意味でも使用が困難になります。

呉智英の「すべからく」誤用指摘は、すでに誤用ではなくなりつつあった「すべて」の意味の「すべからく」を誤用とすることで、自然な流れをとめてしまった例だと私は思っています。使ってもいいのです。でも、「すべて」の意味ではもう使いにくい。「こいつ、知らないのか」と思われるのがシャクなので。差別用語とされた言葉を使う時の萎縮はその感覚にも通じます。

こうして、私自身、高校まで抵抗なく使っていた「きちがい」が使いにくくなっていきます。友だちとの会話でも使ってはいけない言葉、少なくとも使いにくい言葉になっていたように記憶します。

「部落」も同様。蔑視を伴う用法ではない時もこわばる感じが伴って使うのをやめる。このこわばりが萎縮なのです。

※書影は、前回出てきた、用語と差別を考えるシンポジウム実行委員会編『差別用語』。この新版が山中央著『新・差別用語』です。用語と差別を考えるシンポジウム実行委員会の中心メンバーが山中央なのだろうと思います。

 

 

ビッコは残った

 

vivanon_sentence一方で、文書には使用しないまでも、私がずっと使い続けていた言葉もあります。「びっこ」です。これは適切に言い換えできないのです。「あいつ、足を引きずってる」とでも言うしかない。「びっこ」は必ずしも引きずっている状態とは限らないので、言い換えるのが面倒な上に不正確になる。「びっこ」の的確さにはかなわなかったのであります。

この言葉を放棄しなかったのは「差別用語」としての程度が軽いわけではなく、テレビでは言い換えの言葉であり、友部正人の「びっこのポーの最後」が回収騒ぎになるなど、広く「使用してはいけない言葉」として認知されていたかと思います。 ただただ使い続けていたがために使いにくい言葉にはなりきらなかった。使わないと言葉は使えなくなる。

しかし、「ちんば」「かたちんば」はまったく使わなくなりました。私の中では「びっこ」は一時的なものを含み、「ちんば」は恒常的という印象があるため、「びっこ」は使用頻度が高いということもあるし。「ちんば」は言い換えが容易だったためでもありそう。

「かたちんば」は意味が違って、左右の靴下や靴が違っていることを指します。使用するか否かは地域差があるみたいです。 そんな状況はそれほどないので、もともと使用頻度が高い言葉ではない上に、地域性が入っている言葉だからあっさり消えたのかもしれない。

※「びっこのポーの最後」は再発されたアルバムで聴けます。

 

 

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