松沢呉一のビバノン・ライフ

差異主義はなぜ出てきたのか—しつこくクオータ制を批判する[中]-(松沢呉一)-2,929文字-

市民に性差はあるのか?—しつこくクオータ制を批判する[上]」の続きです。

 

 

 

政治の場に性別は不要

 

vivanon_sentence前回見たライシテに象徴されるのがフランスの制度的個人主義であり、普遍主義と言われるものです。宗教も民族も性別も剥ぎ取って、それぞれが同じ単位である普遍的個人として存在し、普遍的個人としての他者を評価する。

普遍主義からすると、多文化は不要という考え方も当然に導き出されます。どんな文化を背景にしていても、公の場では個でさえあればいいし、個でなければならない。「男として」「女として」という立場は不要。だからこそ、あらゆる属性を持つ人がそこに参加できる。

私は議会に赤ん坊を連れてくる議員が誉め称えられる風潮は気味が悪いとつねづね思っていて、そんな議員には投票しない。良妻賢母主義はたいがいに。公用車を不正に使用したのに見逃される金子恵美・元議員に通じます。

今のところ、フランスではそんな議員はいないと思いますし、おそらくそんな議員がいたら批判されます。女であれば母、男であれば父を議会持ち込むことですから、普遍主義に反しましょう。

子育ての問題を提起するアクションとしてはありなのですけど、議会側としては追い出すのが正しい。いかにプッシー・ライオットのアクションを支持する私でも、追い出すことまでは批判しません。追い出さずに、プッシー・ライオットにあのままサッカー選手として参加させるなんてあり得ないでしょ。

まして、それを政治家がやってはいけない。これは議員の資格放棄です。日本で、公明党の議員が池田大作の写真を掲げて議会に出ることと同じ意味です。気味悪いでしょ。追い出した上で厳重注意が適切であり、繰り返されれば議員辞職が適切です。

※SSは子連れで議会に出た熊本市議が厳重注意されたことを伝える21017年11月29日付「毎日新聞」

 

 

差異主義の登場

 

vivanon_sentence人権宣言から着々と蓄積されてきたことですから、二世紀以上にわたってフランスは普遍主義を実践してきました。

これに対して、ここ四半世紀ほど力を持って来ている動きが差異主義です。議会に子どもを連れて来る母親議員は差異主義者と見ていいかもしれない。

候補者男女均等法、リベラリズムからの違和感」を読むと、その経緯がよくわかります。それまでのデフォルトは普遍主義です。男と女はその属性を剥ぎ取った個人として存在する。男であれ女であれ、その能力は個人の能力で評価されるべきという考え方です。

ところが、普遍主義は限界に達します(という見方をする人たちがいると言うべきですね)。「早大西早稲田キャンパスへ—男女別学肯定論を検討する/第三部(1)」にそのことを軽く書いていますが、いかに男と女という属性を剥ぎ取って個人を等しく扱っても、女性政治家は30パーセント台に留まり、医者や会社役員の率も伸び悩んで壁にぶち当たっている。

その突破口として出てきたのが差異主義だと言えます。普遍主義で否定してきた男女二元論を復活させて、「男と女はやはり違う。だから、市民という概念に性差を持ち込まないと平等にならない」というのが差異主義です。

※こういう本も読んだ方がよさそうですが、高いし、字が小さいので、老眼鏡なしで勘で読むのは厳しいべ。

 

 

普遍主義と差異主義の比較

 

vivanon_sentence読む辞典—女性学』の「性差(の理論)」あれこれ」の章で普遍主義と差異主義とを説明しています。そこから一部抜き出してみます。

まず普遍主義。

 

 

普遍主義の立場は、すべての人間存在は同一の資格で個人であり、身体的特徴、「人種」、性別、言語などの二次的な差異とは関わりがないという主張に立脚している。したがって、男女を特徴づける差異は、差異としてはとるに足らないものとされている。

 

 

現実に社会にある性差に基づく不均衡は権力構造によって生み出されたものであり、だから、変えることができるのだし、変えればいいのだと考える立場です。「とるに足らない」ものですから。

なお、人種にカッコがついているのは、揺るぎなく存在していると思われてきた人種や民族といったカテゴリーは実のところ曖昧なものでしかないという人類学における最近の知見を踏まえたものかと思います。社会的カテゴリーとしての人種や民族は相変わらず存在しているわけですけど。

対する差異主義。

 

 

差異主義の立場は、同じ人類の中に「二つの性がある」ことを支持している。だから、平等を獲得することは同一性を獲得することではない。

 

 

ここからは容易に数字的平等を獲得する発想が出てきます。等しい扱いよりも、数字の平等を優先する。「女はもともと政治に向かない。だから、普遍主義では永遠に平等にはならない。よって制度で数字を上げて平等を求めるべきであり、能力が劣っているのだとしても、数字が平等になればいい」という考えと言っていい。はっきりそう言っているわけではないですが、こういう考えを導き出す。

 

 

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