松沢呉一のビバノン・ライフ

文化学院・津田塾大学・東京女子医科大—女言葉の一世紀 134(松沢呉一)-3,154文字-

西山哲治が報告する一世紀以上前の熾烈な共学・別学論争—女言葉の一世紀 133」の続きです。

 

 

 

調和派の女子専門学校

 

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西山哲治が報告する一世紀以上前の熾烈な共学・別学論争—女言葉の一世紀 133」に出てきた米国での女子教育の進み方を見て驚嘆するとともに大いに納得しました。「ああ、状況が十分に整ったから、婦人参政権が実現したんだな」と。コーネル大学がそのふたつの拠点となっていたことが象徴的です。

その点、日本では戦前を通して帝大や私大の一部が少しずつ女子に門戸を開くようになっていただけで、あとの高等教育はすべて男女別学です。これは法で決められていました。

中学校令(旧制中学は現在の高等学校にほぼ相当)では、対象は男子に限定されていて、女子は入学できず、その受け皿が必要とされて高等女学校が誕生します。

その点では「男女の機会均等」のための存在だったのは事実ですが、教育の中身がまったく違っていて、女学校令で良妻賢母的婦道教育をするように義務づけられていたため、西山哲治が著書で紹介していた女子教育の分類で言えば「消極派」でしかありませんでした。

米国では百年以上前に大学の半数以上が「積極派」に転じていたのに、日本では旧制中学レベルでも大学でも大半が別学の「消極派」でしたから、高等教育を受けるとなれば必ず良妻賢母教育の洗礼を受けなければならなかったのです。

それらの学校では「女らしい教養と、家事をやりくりする素養を身につけて、いい花嫁になる人材を育てる」という考え方に基づいてました。

1898年頃のコーネル大学自然学部

 

 

日本の「積極派」は文化学院

 

vivanon_sentence別学は原則男女平等に反することになり、女学校が男女平等に反対していたことも納得しやすい。男女平等や女権主義は自分たちの存在を脅かすものであり、すべてではないにせよ、女学校が女子の社会進出も婦人参政権もまかりならんという姿勢をとり続けたのは整合性がとれています。

これは政府の考え方、あるいは多くの国民の考え方に合致していました。米国との比較で見た時に、日本で婦人参政権を認めようとしなかった議員たちが時期尚早としていたのも半分は正しいように思います。具体的には「女たちの意識は追いついていない」「女たちは求めていない」のだと。

どっちが先でもいいのかもしれないけれど、教育を変革して、男女平等の教育による弊害などないことを立証し、その大学を拠点として婦人参政権を求めていくという米国の流れの方が無理がないように感じます。つまりはそのための実績を作り、とくに教育環境を変えて女たち自身の意識をも変えていくということです。

西山哲治自身がその教育の実践をしようとしたのも筋が通っています。同様に、女学校教育に反発する学校は、これらの枠組みの外に存在します。

たとえばそれは文化学院です。「ビバノン」では猫いらずを飲んで自殺した浜田栄子のからみで出てきただけだったので、改めて説明しておきます。

 

 

文化学院は個人主義かつ普遍主義

 

vivanon_sentence西村伊作や与謝野晶子らによって設立された文化学院は中学部と大学部からなり、当初は女学校ではない女子中学としてスタートし、ここでは女学校で義務づけられていた家事、裁縫といった家政の授業を排除しています。

この学校の趣旨については開校直前の1921(大正十年)1月に、与謝野晶子が書き残しています。

 

 

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