松沢呉一のビバノン・ライフ

東京女子医科大学の創立者・吉岡彌生—女言葉の一世紀 135(松沢呉一)-3,013文字-

文化学院・津田塾大学・東京女子医科大—女言葉の一世紀 134」の続きです。

 

 

 

戦前の女性医師率

 

vivanon_sentenceこれから数回にわたって東京女子医科大学の創立者である吉岡彌生を取り上げます。

吉岡彌生は「男女の交際をどうとらえるか—女言葉の一世紀 101」に登場しています。扇谷亮著『娘問題』(明治四五)に登場する人物の一人として取り上げる際に軽く著書に目を通しただけだったのですが、風紀の乱れを防ぐため、文学否定をするただの道徳派だとしか思えず、それ以上に興味を抱けませんでした。

他にもこっそり登場していた回があったのですが、私自身、気づいてませんでした。これはそのうち出てきます。

その程度の存在だったのですが、東京医科大の件で東京女子医大に興味が向かい、本腰を入れて著書を読んでみました。

その課程で、東京医科大の問題にも通じる記述を見つけたので、本論に入る前に、吉岡彌生著『女性の出発』(昭和十六)から抜き出してみます。

 

 

私共の卒業生は、今日では二千九百人になって居るし、また私共のみでなく日本全国では五千人以上もの女医がゐるので、此の際団結して御国の役に立つ様にと考へてゐたのだが、事変始まって以来敢て戦地に御奉公する迄もなく、内地に於て彼方此方から女医の招聘が引きも切らずと云ふ状態である。それは男医が応召した為めで、また男を頼んでも召集があるかも知れんからといふので要求が急に増した。殊に大都会では手不足ならが何とか廻るとしても、小さい僻村では二里四方に医者が一人といふ様な所では、其人が応召すると非常に村は困って、村長さんがいくらも頼みに出てくる。(略)前線に立ってお国の役に立ってゐるのではないが、間接には相当に役立ってゐるのではないか、今後まだいくら出来ても足りない。

 

 

東京女子医科大学の前身は東京女子医学専門学校です。さらにその前身は東京女医学校で、1900(明治三三)創立です。この本の段階で四十年経ってますから、医師を辞めたのも少なくないでしょう。よって二千九百という数字がこの時点での現役女医数とは言えないですけど、日本全国に五千人以上の女医がいるという記述に驚きました。戦前でもそんなにいたのか。

中央社会事業協会社会事業研究所編『現代保健・医療並救療問題検討』(昭和十二)に医者の総数が出ています。

 

 

 

 

40,753名。1901年3月20日付「官報」によると40,924名とあるので、この35年でほとんど変化しておらず、本が出た1941年の時点でも同じくらいでしょう。そのうちの5,000人以上が女医だったのです。13パーセント以上ってことでしょう。

現在、医師に占める女性医師率は20パーセント程度ですから、いかに増えていないのかがわかります。しかし、増えていないのと同時に、戦前から女性医師の割合が高かったと見るべきかもしれません。

仮にそのままの数字であれば、五割から六割は東京女子医学専門学校ですから、この学校が女性医師輩出に多大な役割を果たしたことがわかります。他の医者はどこを出たのかというと、大阪女子高等医学専門学校です。ここは1928年(昭和三)創立。東京女子医学専門学校よりずっとあとですから、女医の二割から三割程度がここの出身で、あとはどこも出てないと思います(下記参照)。

 

 

医学専門学校に入学するのは難しくなかった

 

vivanon_sentenceそれにしても、この時代にそうも女医を目指したのが多かったことには返す返す驚くしかないのですが、東京女子医学専門学校に入るのは難しくなかったことが理由になっていそうです。今と同じく入ってからは大変だったと思いますが。

以下が昭和三年度(1928年)の試験問題

 

 

 

 

この三科目に作文があっただけ。数学がダメな私でもなんとかなります。

 

 

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