松沢呉一のビバノン・ライフ

それでも男女別学の学校は存在していい—男女別学は差別か?[3]-(松沢呉一)-2,499文字-

女子高や女子大は不均衡是正のために存在しているのではない—男女別学は差別か?[2]」の続きです。

 

 

 

大正期には女学校進学者が中学進学者を上回っていた

 

vivanon_sentence女子大や女子高はかつて女子が高等教育を受けられなかった時代から残っているのだから、いわば既得権として存在していいと思っている人もいるかもしれない。

今現在の女子高や女子大の多くは戦前の女学校をルーツに持つわけですけど、女学校は決して男女の機会均等を目的にしていたのではありません。西山哲治の書いていた基準をもとにすればほとんどすべての女学校は「消極派」に属し、与謝野晶子の表現を借りれば女学校では「男子の隷属者たるに適するやうに、わざと低能扱ひの教育を施して居ました」ということになります。

その辺については先日更新した「文化学院・津田塾大学・東京女子医科大—女言葉の一世紀 134」を読んでおけばだいたいわかろうと思います。

あちらにはそこまで詳しく書いてないので補足しておきますが、旧制中学は男子向けと中学令で定められていたために、女子の受け皿として高等女学校ができたという経緯ではあれ、その数がどんどん増えて、大正期には学校数も生徒数も男女が逆転してます。

 

 

山梨県学務部編『山梨県学事概要』(昭和四)より

 

これにしか「全国学事統計概覧」が出ていなかったためで、とくに私が山梨を贔屓にしているわけではありません。

数字が潰れていて正確ではないかもしれないですが、公立・私立を合わせて中学校は518校、高等女学校は862校。中学校の生徒総数は315,759名、高等女学校の生徒総数は328,208名です。

これ以外に実業学校に進む生徒がいて、おそらくそちらは男子が多かったため、それを入れると男子の方が多い可能性が高いのですが、そちらは男女比がわからないので無視するとして、いずれにせよ、この段階でただ進学するという意味では差がなかったことがわかります。「男子しか進学できない、だから女学校が必要だった」という格差是正の名目が立ったのは明治までなのです。

それでも、男子の方が公立中学の生徒が多いので、そこに幾分の不公平がありますし、そもそも両者はまったく同じ扱いで、同じカリキュラムではなく、女学校は生徒を「低能扱ひの教育を施して居ました」から、どこまでも公平とは言い難いのではありますが、戦後の教育改革によって制度上の差は消えました。

教育基本法では教育の自由も謳われていて、共学ありぃの、別学ありぃので、どちらも選べる時代になりました。別学においても、男子とまったく同じ内容を同じように教える学校も、戦前同様「女らしさ」をもとに教える学校もどちらもある。いい時代でしょう。

 

 

女学校が戦後も「女学校」であり続けた理由

 

vivanon_sentence制度としても「機会均等のため」という理由が完全に消え、制度をリセットする教育改革のあとでも、なぜ女学校が女子高、女子大学として残ったのかと言えば、戦前のように、法が学校の性別を決定するのではなく、各学校の判断に委ねられたからです。

 

 

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