松沢呉一のビバノン・ライフ

「言葉狩り」を正しく使うべし—心の内務省を抑えろ[3]-(松沢呉一)-3,226文字-

誰のための自主規制か—心の内務省を抑えろ[2]」の続きです。

このシリーズは「ネトウヨ春(夏)のBAN祭りからスピンアウトしたものなので、図版がない時は祭りの写真を使っています。

 

 

 

「部落」「部落民」という言葉

 

vivanon_sentenceヘイトスピーチを法で規制することに積極的な人たちは、萎縮効果をまったく考慮していないように見えます。はっきりと萎縮効果を軽視することを著書に書いている学者先生もおられます。「言葉に鈍感な人」「言葉狩りの影響さえ調べたことのない無能な人」というのがそれらの人に対する正しい評価でしょう。

文化圏によっては萎縮効果が比較的起きにくいこともあるのだろうと思いますが、それ自体、差別用語であるはずのない「部落」という言葉が使えなくなった事実、それに伴って部落差別の問題がなぜ語られにくくなった事実を見れば、配慮、忖度が支配するこの国では萎縮効果が強く起きることは歴然としています。

被差別部落をテーマにしている角岡伸彦氏は積極的に「部落」という言葉を使っていて、その事情も自著で説明をしています。彼は「部落民」という言葉を言い換えることを命じた編集部と議論をしても使えず、自ら原稿掲載をとりやめた経験を書いています。

ここでは当事者がどう思うかなんてどうでもいい。もはや抗議が来るかどうかも問題ではない。編集者としては決められた仕事を自分がやったかどうかだけが問題です。

その結果、部落問題を取り上げようとすると、差別と対峙すると同時に、思考停止した編集部のルールと対峙しなければならない。この面倒を受け入れる覚悟をしないと取り上げられない。だったら、取り上げるのをやめようということになりますよ。

それぞれの言葉で、多くの書き手が奮闘すれば現状は変わるかもしれないですが、現にそうはなっていない。大多数の書き手は書き直せと言われれば従う。あるいは指摘される前に、問題のない言葉に自ら書き換える。

こうなると、編集部としては「面倒だから、角岡伸彦を起用するのはやめよう」「面倒だから、部落問題を扱うのはやめよう」「面倒だから、松沢に街娼のことを書かせるのはやめろよう」で終わってしまう。

つまり、奮闘をしない書き手もここに加担しているのです。私も自信のある領域以外では加担してます。では、書き手を責めれば解決するのか?

 

 

言葉が差別する側に手渡された

 

vivanon_sentenceなぜネットでも、「部落」という言葉を差別のために使う連中以外で書く人が少ないのか。誰もが自粛をして、「言葉狩り」に加担をしているのです。

多くの人の心の中に、解放同盟、あるいは事前に検閲をする内務省が存在している。しかも、「この言葉を使うと解放同盟がうるさいから」として、他者に責任を負わせて言葉を狩る。狩っている主体は自身であるにもかかわらず。

かつて差別的な文脈ではないのに「部落」という言葉が解放同盟の糾弾対象になった例があるのは事実。ここは大いに反省していただきたいところです。

しかし、「特殊部落」はともあれ、「部落」についてはそういう例が頻発したわけではなく、まして今の時代にこんなんで文句を言ってくることは考えにくいのに、なお「部落」という言葉は使いにくい。解放同盟が文句を言ってこなくても、いちいち「その言葉を書くと、解放同盟が怖いよ」と忠告してくる人たちはいるでしょう。その時も解放同盟のせい。その偽りの善意が言葉を狩ります。

さらには「傷つく人がいるから」という人たちがここに加担する。その人たちにとっても、傷つく人がいるのかどうかは問題ではないのです。そう言いたいだけ。

その結果、差別に反対する側の人の側にも萎縮効果が生じ、被差別部落自体に触れにくくなっていて、触れようとすると覚悟がいる。しかし、差別する側は遠慮なくここに踏み込む。この不均衡ってまずくないっすか。

皆が皆、ここに加担してしまっています。その言葉はそれ自体が本当に差別になるのか、差別を煽動するのかという検討をしたくないことの結果なのです。

私らは私ら自身の中にある「言葉の言い換えルール」「言葉を言い換える癖」の存在を見据えた上で、このことを考えていく必要があります。

 

 

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