「当事者」を改めて考える—心の内務省を抑えろ[14](松沢呉一)-3,092文字-
「雑誌「バディ」以前と以降—心の内務省を抑えろ[13]」の続きです。」の続きです。
誤解されるといけないので、毎度の説明です。このシリーズは「ネトウヨ春(夏)のBAN祭り」からスピンアウトしたものなので、図版がない時は祭りの写真を使っています。他意はありません。
当事者が不快であることと差別とは別
ここまで「オカマ論争」を振り返りましたが、重要なポイントがいくつかあります。
「東郷健は嫌われ者だった—心の内務省を抑えろ[12]」に書いたような、「東郷健の存在は、自身の心にトラウマになるほどの嫌悪感を植えつけた」と語る男性同性愛者の気持ちは、言われれば理解できますけど、ヘテロには言われなければわかりにくい感情かと思います。私も言われるまでわかってませんでした。
こういうことがあらゆる局面で起きます。だから、当事者に率先して語ってもらわなければならない。語らないと、なかったことにされます。当事者の存在は尊重されなければならず、その存在を無視した議論は無効と言っていいでしょう。
セックスワーカーについてはいまだ当事者不在の議論がまかり通ってますし、いくら語っても改竄までされてしまうわけですけどね。
だからと言って、当事者の不快さが差別かどうか、当事者の意見は妥当かどうかとはまた別であって、ひとつひとつを検討する必要があります。検討をやらずして、その不快さを解消するために、「東郷健は選挙に立候補するな」「ゲイやオカマを自称するな」なんて言えるはずがない。
当時は法的な裏付けはなかったにしても、東郷健にも「自分が何者であるのかを正しく認識させる権利」があって、立候補する権利も当然ありました。その権利は「ゲイ」「オカマ」と自称することを理由に剥奪できるはずがない。
もし傷ついた個人を根拠にして、「立候補してはならない」「目立ってはならない」なんて主張がまかり通るのであれば、誰一人同性愛者として立候補することも、同性愛者であることを名乗りでることもできなくなります。「この人だったら同性愛者と名乗っていい」と万人が納得する存在なんていない以上。
東郷健はとりわけ極端だったと思いますが、それ以外でも多くの人たちが同じようなことを言われてきました。「あれが同性愛者だと思われると困る」と。おすぎとピーコだってそうです。尾辻かな子がレズビアンであることを公開して立候補した時だってそうです。そういう意見を私も直接聞きましたし、配布したビラを目の前で捨てたレズビアンもいました。昨今のオネエタレントだって今なおそう言われています。プライドパレードのドラァグクィーンやゴーゴーボーイズも言われています。
彼らの存在がいかに不快であろうとも、この不快感は自分自身名乗りを上げない限り解消されない。自分の代弁は誰もできないのですから。当然今度は自分が同じことを言われてしまいますが、名乗り出ることができないのだとしたら、黙っているしかないのだと思います。足を引っ張ってはいけない。
当事者が使用するのはいい?
続いて「当事者とは誰か」という問題があります。「オカマ」の当事者は幅が広い。東郷健も当事者、「すこたん企画」も当事者、それを批判した伏見憲明や野口勝三も当事者です。他にも重要な役割を果たした当事者がいるのですが、そのことを公開しているんだったかどうだったか忘れたので触れないでおきます。
男娼、ゲイボーイ、男性同性愛者、トランスジェンダー、女性性を持つ男性、男性性を持つ女性などをすべて代表できる個人はおらず、そのひとつひとつの集団を代表できる個人もいません。
これらの中には自嘲的に「オカマ」を使用する人たち、冗談として使用する人たち、自嘲や冗談を越えて自称・他称に「オカマ」を使う人たちもいます。自身では使わなくても、蔑称でなければ他者が使用することを容認する人たちもいて、蔑視を込めない、例えば「オカマさん」といった言い方だったらなんとも思わない人たちもいます。
誰かが「傷ついた」と申告しても、その個人のことしかわからず、どうやっても当事者を代表する意見にはならないわけです。
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