松沢呉一のビバノン・ライフ

文芸系とノンフィクション系の違い—高橋源一郎の提言[中](松沢呉一)-3,423文字-

批評対象の著書をすべて読むことに意味があるのか?—高橋源一郎の提言[上]」の続きです。

 

 

 

高橋源一郎の「文芸的アプローチ」

 

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高橋源一郎は、こう書いています。

 

 

 しかし、なぜ、小川さんは、そのようなハジケた、というか、いささか乱暴な文章を書かれたのか。「文藝評論家」であるのに。それが、おれにとって、最大の疑問だったのである。

 

 

私はここに興味を抱けない。どうでもいい。

この違いは、高橋源一郎が真摯で丁寧ということもありつつ、文学畑ってことかとも思います。文学畑の人がすべてこんなアプローチをするはずもないし、ノンフィクション系でも対象の全著作を読むことはあります。「ビバノン」で出したもので言えば、ドクター中松については、その時点で入手可能なものには目を通しています。

対象次第だし、書く内容次第なのですけど、小川榮太郎においてもそうすることの意味がわからない私にとっては「文学畑だから」がもっとも納得しやすい。そうとでも考えないと落ち着かないと言いますか。

たとえばの話。戦前の本を読んでいたら、古い絵葉書がはさまっていることに気づきます。女が泣いているように見えます(下の絵葉書はイメージを具体的にするための参考資料。ebayに出されていたもの)。

私だったら、まず消印を見たり、切手を見たり、文面の日付を見たり、おはしょりや髪型を見たりして、それがいつのものかを確定させます。

高橋源一郎だったら、そこに写し出された女の表情を見て、彼女は何を考えているのか想像したり、今読んでいた本にその絵葉書が挟まっている事情やその人物がどんな人だったかを本の内容と絵葉書に書かれた文字から想像したりするのだろうと思います。

私もそういった想像に至ることはあれ、まず事実を確定させようとする。高橋源一郎もいつの時代のものかは考えるでしょうが、それは人を想像するためのよりどころとしてなされます。

どちらに重きがあるのかの違いであり、どちらがいいかではない。

これはある文章をどう批評するのかにおいても表れて、私はそこに書かれた範囲内で検証することに重きがあり、著者のことに興味を抱くとしても二次的です。高橋源一郎に興味を抱いても、「『文藝評論家』小川榮太郎氏の全著作を読んでおれは泣いた」に書かれた範囲のことです。

対して高橋源一郎はそれが書かれた事情や背景、心理にこそ向く。

たとえば森律子について書いた時に私は国会図書館で読める二冊に目を通し(飛ばしつつ)、その主張に注目し、そこから他の人が森律子について書いたものを読み、イギリスのサフラジェットについて調べ、時代背景を調べていき、家族のことも出てきたので、それも調べました。

高橋源一郎だったら、森律子の主張よりも人に注目して、女優としてどんな舞台に出ていたのかを調べ、出ていた芝居の脚本にまで目を通そうとするかもしれない。家族のことも、本に出て来なくても調べるでしょう。

実際どうなのかわからないまま、大雑把に分けると、「主張か人か」です。ノンフィクション系でも人物をクローズアップする場合はありますけど、おそらくその時でも内面を想像するよりも、事実の確認を先行させるだろうと思います。内面はそのあとに付随してくる。この違いは「記録に残らない内面か、記録に残された事実か」と言ってもいい。

 

 

社内でも分かれた考え方

 

vivanon_sentence自分を落ち着かせるための勝手な想像でしかないですが、このアプローチの違いについて考えている時に、「ああ、そういえば」と思い出したことがあります。

今回の騒動で、強く社内で批判を展開したのは文芸畑の編集者たちでした。ここまではTwitterでツイートしていた文芸畑の編集者がいたことや、「新潮」の誌面でもわかりましょう。

 

 

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