批評対象の著書をすべて読むことに意味があるのか?—高橋源一郎の提言[上](松沢呉一)-2,932文字-
「「ヘイト」の意味を巡る対立—言葉を理解できていないのはどちらか」より先にこちらを書き出していたのですが、あちらが先にできてしまったので順番が逆になりました。どっちが先でもいいんですけど、あっちを読んでない方はあちらも目を通してください。
「『文藝評論家』小川榮太郎氏の全著作を読んでおれは泣いた」
9月29日、高橋源一郎が「新潮」11月号に、小川榮太郎について言及した原稿を書いた旨を知らせるツイートがFacebookに流れてきました。
これをシェアして、高橋源一郎は自分の連載で一方的に書いたのではなく、編集部と合意済みであり、場合によっては編者部からの依頼であろうとの推測を私はFacebookに書きました。
そののち、当該の原稿が掲載された「新潮」が発売されたこと報道で知りつつ、買うには至りませんでした。それについての特集が組まれているならともかく。
2018年10月10日付「東京新聞」より
10月19日、「『文藝評論家』小川榮太郎氏の全著作を読んでおれは泣いた」がネットで公開されました。
やはり編集者からの依頼だったか。
中身は一読してピンと来ませんでした。しかし、気になる原稿です。どこがピンと来ないのか、何が気になるのかを見定めるため、もう一度読みました。
高橋源一郎への興味をかきたてられる内容
小川榮太郎という名前はこれまでにも見たことはあったと思うのですが、読んだことはありません。「新潮45」掲載の「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」で初めてその文章を読んで、私はなんの興味も関心も抱けませんでした。
高橋源一郎も、おそらく私と同じです。「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」に対しては、原稿の冒頭で問題点を挙げて皮肉たっぷりに軽くあしらっています。月刊誌としては、いまさら問題を正面から取り上げて批判するほどのものではないという判断でしょう。
「LGBTという概念について私は詳細を知らないし、馬鹿らしくて詳細など知るつもりもないが、性の平等化を盾にとったポストマルクス主義の変種に違いあるまい」というのも類を見ない発想だ。他の雑誌でも「詳細を知らないが」と前置きして書いているのを見かけるので、あえて「知らない」ままで書くのがお好きな方のようだ。おそらく、その方がフレッシュな気持ちで書けるからだろう。とにかく、小川さんに「事実と違う」と指摘するのは意味がないのではあるまいか。だって「知らない」っていってるんだから。しかし、これ、いい作戦かもしれない。おれも、「詳細を知らないし、馬鹿らしくて詳細を知るつもりもない」と前置きして書くことにしようかな。それで文句をつけられたら、「おれの文章をきちんと読め! 知らないっていってるだろ」といえばいいわけだ。でも、それでは、「新潮45」を読むような善男善女の読者はびっくりしたと思う。ふつうは、ある程度、意味を知って書いているはず、と思いこんでいるからね。
調べてもわからなかったために推測でしかないことをわかるようにしたり、取り上げる箇所が限定的でしかないことをわかるようにすることは非難されるようなことではありません。私もしばしばやることです。
しかし、「LGBTという概念について私は詳細を知らないし、馬鹿らしくて詳細など知るつもりもない」と断言しているのはいくらなんでも怠け過ぎかと思います。検索をすれば、たとえば「性的嗜好など見せるものでも聞かせるものでもない」といった主張は、今までもさんざん繰り返されて、徹底的に批判され尽くされていたものでしかなく、前世紀のゴミ箱から拾ってきたようなものだと気づけるはずです(おそらくこの「嗜好」に校閲は赤を入れたでしょう)。
「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」については、これ以上、論じる価値があるとは私にも思えません。それでもこれに共感してしまう人がいるんでしょうから、ひとつひとつ説明していく必要はあるのですけど、ここでは「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」ではなく、「『文藝評論家』小川榮太郎氏の全著作を読んでおれは泣いた」に絞ります。
「『文藝評論家』小川榮太郎氏の全著作を読んでおれは泣いた」の本論である小川榮太郎という物書きに対する評価についてもまた私は興味が抱けない。私がこの原稿で興味を抱いたのは高橋源一郎です。
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