松沢呉一のビバノン・ライフ

野間易通に共感した点—心の内務省を抑えろ[19](松沢呉一)-3,007文字-

差別意識を逆転させた反差別意識の誤り—心の内務省を抑えろ[18]」の続きです。

このシリーズは「ネトウヨ春(夏)のBAN祭りからスピンアウトしたものなので、図版がない時は祭りの写真を使っています。

 

 

 

しばき隊スタート時の考え方

 

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「しばき隊」を呼び掛けた時の野間易通に強く共感したのはここまで書いてきたような発想を乗り越えようとした点にあります()。

差別は社会の公平性を壊すものだと言い切った。人を傷つけること、不快にすることはそれに付随するものであって、その人たちに対する救済はなされていいとして、それが差別に反対する根拠なのでなく、社会の公平性を守るたであり、その当事者は社会を構成するすべての人なのだと(まで言ったかどうかは覚えてなく、私が補足してそう言ったのかも)。

そこにおいても、差別の対象になるという意味での当事者の意見は尊重されるべきなのだけれど、つねに当事者の意見が正しいわけではないのだし、それが唯一の発言資格、判定資格ではない。「当時者だから」でその主張の是非が判断されるのではなく、「非当事者だから」でその主張の是非が判断されるわけでもない。属性を剥ぎ取った個人としてそこに存在し、発言をする。差異主義の考え方です。

さもなければ、非当事者として問題に関与すると、それは他者の問題になり、当事者の代弁をし、当事者を支援する側になる。その時には自分は差別する側に属していることを前提とすることになります。

しかし、当事者の属性を持ちながら、他の属性に対しては差別的な姿勢をとることがあるのは「オールロマンス事件」でもあった通り。個人としても、在特会に参加した在日がいるように、あるいは同性愛者の足を引っ張る同性愛者がいるように、自身と同じ属性を持つ人々に嫌悪や憎悪を向ける人たちがいます。

属性だけで、「差別される人」「差別する人」と決めつけることはこの現実とズレていて、この線引きが両者の間に超えられない壁を作り出す。この壁によって非当事者は自身の問題としてとらえられない。つねに外側から関わることしかできない。

これを克服し、他者の問題から、自己の問題としてとらえる。自身がマジョリティであることをもって差別者だから当事者であると考えるのではなく、社会を構成する点で当事者なのだと自己を規定する。

こういうことだと私は理解してました。

注:時々、「野間と松沢の関係がわからない」と言われるのですが、仲がいいわけでもないし、悪いわけでもない。考え方は合うところもあるし、合わないところもある。しばき隊の始まりの考え方については今なお支持。しかし、手法としては特例的、限定的なものだったという点については清義明の考えに私は近い。法規制については早い段階から野間易通とは話が合わず。オタクを敵視する点については相当に私は批判的。差別用語についての考え方はもともと近かったと思うのですが、今は違いそう。

この辺のズレている部分についてはこのあと取り上げていこうと思ってますが、関係についてはとくに変わりはないのではなかろうか。これはしばき隊以前から知っていたことが大きい。知らなかったら、とっくに互いにブロックしてたかも。知っていることで遠慮が生じる方に力が働くこともありますから、面識がある方がいいとは必ずしも言えないのだけれど。

 

 

判定するのは社会

 

vivanon_sentence「差別か否かは誰が決定するのか」というテーマにおいて、「被差別者が決定する」という考えに対して、「社会が決定する」と私は言い続けてきています。そう考えてきた私が野間易通の提唱に共感するのは当然です。つうか、彼の差別論は「オカマ論争」に影響されているので、あっちがこっちに影響されているところがあるんですけどね。

「誰が当事者か」「誰が判定者か」というテーマも、「オカマ論争」の頃もよく論じていて、しぱき隊が動き出した2013年頃も、その焼き直しをよく論じていましたが、このことを言うと「私らを排除するのか」と言い出す「当事者」たちがいます。Facebookでもそんなことがありました。

「いやいや、あなた方も社会を構成しているでしょ」って話。誰が発言してもいいし、誰が関与してもいいのです。どんな属性であっても正しいことは出しく、間違ったことを言えば叩かれる。

この社会に関わりのない人、たとえばどっかの国にいて、日本に来たこともない人は発言権がないとしていいですけど、今までの当事者、判定者は引続き当事者であるにもかかわらず反発をするのは、それまで差別の判定は自分らの専権事項であるとの思いがあったからなのだろうと思います。その思い込みが間違いです。

差別の対象という意味での当事者の意見は引続き尊重されなければならないのだけれど、それが排他的な資格にはならない。

 

 

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