松沢呉一のビバノン・ライフ

差別意識を逆転させた反差別意識の誤り—心の内務省を抑えろ[18](松沢呉一)-2,843文字-

他者の権利を制限すると自身の権利も制限される—心の内務省を抑えろ[17]」の続きです。

このシリーズは「ネトウヨ春(夏)のBAN祭りからスピンアウトしたものなので、図版がない時は祭りの写真を使っています。

 

 

 

差別は対等の関係を壊す

 

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差別は対等な関係を壊します。

たとえば私とゲイの友人たちの間では、ふだん意識する違いはとくにありません。「あの男の子、かわいい」と言われれば、「どれどれ」と私も見て感想を言います。「ハッテン銭湯に行こう」と言われれば一緒に行きます。しかし、サウナでチンコを勃てたりはしないので、そこに至れば違いがはっきりします。

セックスの対象の違いはその範囲に留まらず、「そのことを職場では言えない」「カップルでアパートを借りづらい」「カップルが法の保護をヘテロと同じようには受けられない」といった問題が今もあるわけですが、そういった問題に直面した時に私と彼との間に不均衡があって、「だったら、解消しよう」ということになります。対等であるはずの関係において、対等であることを妨害する制度や社会の見方は変えましょうってことです。

この時に、制度による差別、社会の視線による差別がある以上、両者の関係は非対称であって、最初から対等ではあり得ないと考える人たちがいます。

現にまったく同じではなく、私が独身であることは自身の選択であるのに対して、同性愛者は選択ができない以上、結婚していないことは制度がもたらしているものかもしれないわけですから、同じ独身でも意味は違います。

それでも私はほとんどの場面において両者は対等だと認識できるのに対して、大前提として「両者は違う」というところから始める人たちがいるのです。

対等な関係を意味するはずの「アライ」という言葉を支援者という意味にしてしまう人々への反発はそこにあります。これに限らず、人との関係を上下でとらえることで距離を定めて安心する人たちがいて、それがここにも持ち込まれたのだろうとも推測しますが、「それはあなたが望む人間関係であり、サポーター、支援者という言葉で言い表せばよく、アライとは別」と言わないではいられない。

アライを支援者という意味にする人々に対する批判も、野間易通と私はほとんど同時に表明しました。こういうところの発想はやはり近い。

あのシリーズで書いたことは「オカマ論争」を踏まえてますので、読んでない人は読んでおくとよいかと思います。

 

 

属性で判定することの両極

 

vivanon_sentence「対等な関係においても、対等ではない部分があって、そこは改善しましょう」と考えるのは普遍主義的と言えましょう。対して、「両者は制度上の違いがあるのだから、そもそも対等な関係は作り得ない」あるいは「性の対象が違うのだから、そもそも両者は対等ではあり得ない」と考えるのは差異主義的と言えます。

考え方はいろいろってことですけど、「あんたらはあんたらでやってちょうだい。アライはこっちの関係を指すものなのだから、あんたらの領域での解釈が絶対的な正解であるかのように言わないでちょ」ってことです。

対等な関係においての障害になるのが差別です。だから差別は嫌い。

それに反対する人たちにおいても、対等な関係の障害になる発想をする人たちがいて、前回確認した「属性を問わず、人は自身が何者であるのかを正しく他者に認識させる権利があり、その権利は守られなければならない」と考えることと、「在日は自身が誰であるのかを正しく他者に理解させる権利があるが、日本人はその権利を行使してはならない」と考えることの違いもここに関係しているのだろうと思います。

この差異主義的な発想が極端に出るのが差別とも言えます。「外国籍だから」「障害者だから」「女だから」という発想から始まる。それに反対する人たちの中にもこれを逆転させて、「日本国籍だから」「健常者だから」「男だから」で発想して対等な関係を拒否してしまうのがいます。

 

 

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