誰も偏見から逃れられない—群衆心理に打ち勝つ方法[3](松沢呉一)-2,426文字-
「群衆は短い言葉で断言されると暗示にかかる—群衆心理に打ち勝つ方法[2]」の続きです。
人は先入観を利用して事物や人を認識する
「なぜネットで「在日認定」が行われるのか─ステレオタイプ論と群衆心理から」が参考文献として挙げていたW.リップマン著『世論』の方は読んでないのですが、論の内容は以前メルマガで長期間論じていた認識論の話に通じていそうです。
以前からここで書いたことを「ビバノン」でまとめておこうと思っていたので、この機会にやっておきます。
メルマガで私は広く偏見を論じていて、そこでも「ステレオタイプ」という言葉を使っていたかもしれない(私は多くの場合「ステロタイプ」を使っていて、これは「ステレオタイプ」の変化形。ここでは「ステレオタイプ」で統一します)。完全に一致する言葉ではないですが、「偏見」と「ステレオタイプ」は重なるところがあります。
私らはカテゴリーを使って、そこに事象や事物、人物をあてはめて理解することを日常的にやっています。すっかり発想の中に根づいているため、意識することがあまりないだけです。
たとえばコンビニやスーパーに行って、スムーズに買物ができるのは、ジャンルごとに分類されているからであり、もし商品名が一切の分類なく並んでいたら商品を探すことに今の何倍、何十倍もかかります。百貨店ともなると一日かけても目指す商品に辿り着けないかもしれない。
あるいは商品名がジャンルと無関係にあいうえお順、ABC順に並んでいたとしてもどれだけ不便か。タンスの横にカップ麺が置かれているような売り場です。
その商品を購入する時も我々は経験や情報による先入観を利用しています。メーカーに対する信頼感もそのひとつだし、ある食品がおいしそうに思うのは、それと同じもの、同じようなものを過去に食べた経験に基づいてます。その連想が正しいことの保証はないにもかかわらず、いわば偏見でそれを買っている。
言葉はつねにステレオタイプを作り出す
「焼肉はおいしい」「寿司はおいしい」という評価は類型化された評価でしかなく、個別に見ていけば「おいしくない部位(ネタ)」「おいしくない素材」「おいしくない店」「おいしくない日」「おいしくない体調」があるはずですが、普遍化した表現を使う。
また同じものを食べても「おいしい」と感じない人や、生魚が食べられない人もいるのですから、正確に言えば「私が今食べた焼肉はおいしい(ただし、それ以外の焼肉はわからない)」「私のこれまでの経験で言えば寿司はおいしい(ただし、他の人がどう思うかは知らない)」ということになります。
(残り 1465文字/全文: 2591文字)
この記事の続きは会員限定です。入会をご検討の方は「ウェブマガジンのご案内」をクリックして内容をご確認ください。
ユーザー登録と購読手続が完了するとお読みいただけます。
会員の方は、ログインしてください。
外部サービスアカウントでログイン
Twitterログイン機能終了のお知らせ
Facebookログイン機能終了のお知らせ