松沢呉一のビバノン・ライフ

群衆は短い言葉で断言されると暗示にかかる—群衆心理に打ち勝つ方法[2](松沢呉一)-2,609文字-

一世紀以上前に書かれたTwitter批判の書—群衆心理に打ち勝つ方法[1]」の続きです。

 

 

 

「九月虐殺」を導いたもの

 

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力のない孤立した個人が群衆になることによって、個人として備えている冷静な推理力(「推理力」は『群衆心理』に頻繁に出てくる表現)を失い、その引き換えに権力を得たと錯覚するのだとギュスターヴ・ル・ボンは指摘しています(ざっくりとした要約です)。

今もこれは通用しましょう。取り柄のない平凡な学生、会社員だったりする「現実の私」が群衆の中では忘れ去られる。だから大胆な行動にも出られる。そこまではわかるとして、同時に権力を得た気分になるという点が重要。

とくに権力と自身を重ねる癖のあるネトウヨは顕著だとして、思想を問わず、群衆はしばしばそうなります。とりわけ制裁という行為にそれが出ます。ネットリンチ呼ばれる行動も制裁欲にかられてのことであり、「祭り」に多数の人が集まれば集まるほど加速していき、「こいつは制裁されるに足るのだ」という確信を得て、それと同時に「自分は制裁を加えていいのだ」と錯覚します。

ネットの「祭り」は娯楽であるとともに私刑の側面があります。だから、「ネットリンチ」と言われるわけです。

群衆心理』に出てくるフランス革命時の「九月虐殺」では、反革命派と見なされる貴族や聖職者が投獄されていた刑務所を民衆が襲い、全国で一万数千人が虐殺されています。その多くは一般の囚人たちでした。この行動を駆り立てたのは、刑務所から出てくると自分たちが報復されるという恐怖が背景にあり、また、形だけの人民裁判が行われたことで、私刑が正当化されました。

この人民裁判がムチャクチャなものだったらしいのですが、なんの権限も知恵もない人たちがここでは裁判官になれて、死刑宣告できてしまい、それに民衆が従って次々と人を殺してしまえる怖さ。これを可能にするのは、一定の目的をもった群衆だからであり、そこに正義があるからです。

ここでの記述は関東大震災の自警団にも通じます。彼らも正義を確信していたでしょう。

正義のない社会はあり得ない。よって正義が悪いわけではない。正義が暴走してしまうこと、それが暴力、殺人の名目になることが怖い。

Les massacres de Septembre 1792 「九月虐殺」を描いたもの。色は近年つけたものだとして、絵自体も最近のものかもしれない。と批評して引用扱いで。

 

 

自分が権力者になれたような快を得られる群衆心理

 

vivanon_sentence「Twitter社会運動」の反省点—ネトウヨ春(夏)のBAN祭り[12]」に書いたこともこれに通じていそうです。群衆の中にいることで、自分が身バレしては困る立場にいることを忘れてしまって脇が甘くなる。「正義」のお題目が現実を忘れさせる。そうとでも考えないと、あの脇の甘さが理解できない。

もうひとつ、ここで思い出したことがあります。メルマガに書いたことがあるのですが、罰則つきヘイトスピーチ規制法賛成派の人たちを見ていて、どういうもんか、自身が権力者気分になっていることがあるのに気づきました。

 

 

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