松沢呉一のビバノン・ライフ

国民性・県民性・区民性に触れるべきではない?—群衆心理に打ち勝つ方法[付録2](松沢呉一)-2,878文字-

群衆心理に打ち勝つ方法」の付録編です。

 

 

 

国民性、県民性を語ることは差別につながるのか?

 

vivanon_sentenceWikipediaのステレオタイプの項を見ていて思い出したことがあります。地域性がステレオタイプのひとつに挙げられています。メルマガでこのことを論じていた時に、国民性や県民性も差別につながるものであるとの主張をしてきた読者がいます。つまり、それも語るべきではないのだと。

これこそが「ステレオタイプは差別につながるものなのだからなくすべきである」という主張につながる過剰な発想です。

それらに根拠がなければ葬っていいのですが、県民性には根拠はあります。これまでに何度か調査が行われていて、よく言われる県民の性格はある程度は正しいことが明らかになっています。情報が津々浦々まで流れ、人の移動が激しくなったがために消えたものもありますし、もとは藩あるいはもっと狭い範囲で言われていたことが県に拡大されたために数値に出にくくなっているものもありますが、一世紀前、二世紀前に正しく範囲を限定して調査していたら、さらにその特性ははっきりしていたことでしょう。

わかりやすい例で言えばカップ麺の味付けをどうして東西で変えているのかって話。売り上げが変わってくるからです。二種製造することのコストと売り上げの増加を比較して、二種製造した方が得との計算が成立するくらいには違う。

とは言え、これも数字的差異でしかないですから、例外は多数います。場合によっては県民の8割が県民性に該当しないこともあります。それでも全国平均が1割であるのに対して、その地域は2割が該当するのであればその地域の住民を表す特性になります。

※文章とはズレてますが、各国の戦時下プロパガンダ図版を見ていたら、ナチスは「強さ」を強調するだけでなく、優しいも強調。そこんところは一枚上手。これには託児所の拡充などの実も伴っていて、だからナチスは女性に支持され、吉岡彌生も礼讃したのです。

 

 

やってはいけないのは差別である

 

vivanon_sentenceこれが問題になるのは統計的数値に過ぎないものを個人に落とし込むことです。個人差の方がずっと大きいのに、個人をそうだと決めつけてしまう。

「沖縄県民は時間にルーズでなにかにつけいい加減である」という傾向はたしかにあると思うのですが、こういった傾向を嫌う沖縄の人たちもいて、結局のところ人によりけりでしかない。

その県民性をもって個人を判定し、他の社員より遅刻が少ないにもかかわらず、「沖縄出身だからな」と出身をあげつらうような行為はよろしくないし、出身地をもって入社試験を落とすとなれば差別です。

そこに至らず、県民性を見極め、論じるのは問題なし。さもないと、『秘密のケンミンSHOW』だって成立しません。「××県ではこんな御馳走がある」と言っても、それを食べるのは県の一部地域だけだったり、年寄りだけだったりするわけで、データをとると、県内でも少数派に属することも多々ありましょう。それでも比較として他県より多ければ、その県の特性になります。これはここまで述べてきた私らの認識方法に合致しています。

※沖縄県民について書かれた本では、100パーセントに近い高率で、ウチナータイムとテーゲーについて書かれていると思います。

 

 

区民性は存在するのか?

 

vivanon_sentenceついでに書いておくと、東京都内で「港区は金持ち、足立区は貧乏」みたいなイメージがありますが、これも数字にはっきり出ています。

半年ほど前だったか、石坂わたる中野区議とダベっていて、「中野区は歳入が少ない」、つまりは金がないという話を聞いて意外に思いました。区役所は大きくて立派だし、若い世代が多くて活気があるのに、下から数えた方が早いらしい。

 

 

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