松沢呉一のビバノン・ライフ

金をめぐる攻防—伊藤野枝と神近市子[5]-[ビバノン循環湯 463] (松沢呉一) -4,952文字-

日蔭茶屋事件—伊藤野枝と神近市子[4]」の続きです。

 

 

 

神近市子が出していた金

 

vivanon_sentence高井としを著『私の「女工哀史』シリーズでもそうだったように、人と人との関係を見るのに、まず正確に金を確認するのが私の常道です。

以下はWikipediaの神近市子の項です。

 

 

1916年、金銭援助をしていた愛人の大杉栄が、新しい愛人の伊藤野枝に心を移したことから神奈川県三浦郡葉山村(現在の葉山町)の日蔭茶屋で大杉を刺傷、殺人未遂で有罪となり一審で懲役4年を宣告されたが、控訴により2年に減刑されて同年服役した。裁判では市子は社会主義者ではないと弁明し、野枝に対する妬みを詳細に陳述した。(日蔭茶屋事件。)

 

 

どこも間違ってはいないのですけど、刺し殺そうとするくらいだから、何年間にもわたって、今で言えば五万円十万円という金額を毎月渡していたのに裏切られたと思ってしまいそうです。トータルでは数百万に達するのだろうと。

いつからどのように大杉栄と神近市子の関係が始まったのか、両者とも具体的には書いていないのですが、一九一七年(大正六)三月の裁判で神近市子は「一昨年の十二月から」と証言しています。「日蔭茶屋事件」まで一年足らずです。

大杉栄と伊藤野枝の淡い関係は、伊藤野枝が辻潤と暮らしている間に始まっていたのですが、バランスが狂い始めるのは辻潤のところから伊藤野枝が飛び出して以降のことです。これが一九一六年(大正五)二月。「日蔭茶屋事件」まで九ヶ月しか経っていません。短いのです。

そのことを踏まえて、日蔭茶屋での二日目の夜、凶行の直前の二人の会話をお読み下さい。

以下は大杉栄著『自叙伝』から。

 

 

「ね、本当にもう駄目?」

「駄目と云ったら駄目だ。」

「さう、私今何にを考へてゐるのか、あなた分る?」

「そんな事は分からんね。」

「さう、私今ね、あなたが金のない時の事と、ある時の事とを考えているの。」

「と云ふと、どう云ふ意味だい?」

「野枝さんが綺麗な着物を着ていたわね。」

「さうか、そう云ふ意味か、金の事なら、君にかりた分はあした全部お返しします。」

僕は彼女に金の事を云ひだされてすっかり憤慨して了った。

「いいえ、私そんな意味で……」

彼女は何にか云ひわけらしい事を云ってゐた。

「いや、金の話まで出れば、僕はもう君と一言もかはす必要はない。」

僕は断じてもう彼女の云いわけを斥けた。そして彼女がまた二言三言何にか云ってゐるのも受けつけずに黙って了った。

いつでもあの位気持ちよく、しかも多くは彼女から進んで、出してゐた金の事を、今になって彼女が云ひださうとは、全く僕には意外だった。そして此の場合、金が出来たから彼女を棄てるのだ、と云ふやうな事を云はれるのも、全く意外だった。

 

 

このやりとりは、金銭援助をしていたことを大杉栄が軽視して、逆切れしたようにもとらえられます。金を貢がせておいてひどいと。

神近市子がここで伊藤野枝の着物のことを持ち出したのは、大杉栄が自分を必要としなくなったと思ったためでしょう。この着物は新調したのではなくて、質屋から取り戻したものです。その金はどこから出たのかと神近市子は言い出しました。

この四角関係の中で、安定した収入があったのは神近市子だけ。堀保子も働いてましたが、定まった収入ではなかったようですし、大杉栄も人気作家と言っていいでしょうが、自身が出していた雑誌が次々と発禁にされては金が続かない。そこで「経済的援助」をしていたのが神近市子でした。

その出所が後藤新平内務大臣であったことまでは話していないながら、雑誌を出す金を得たことは神近市子に教えていて、おそらくその金が伊藤野枝の着物に回ったのだとから察知して、神近市子は自分の優位性が崩れてしまう恐怖を感じたのでしょう。

ただし、裁判の証言ではその前に神近市子が出した金で着物を質屋から出したのだと思っていたようです。こう勘違いしていたのであれば「私の金で野枝はいい着物を来て二人で葉山に来ていた」と野枝に対する憎しみも高まるってもんです。買ったわけではなくて、質から出しただけですけど。

しかし、現実にはそうではありませんでした。

※林倭衛「出獄の日のO氏」。林倭衛は一九一九年(大正八)に大杉栄を描いたこの絵を二科展に出品し、警視庁から撤回を命じられている。その経緯はこちらに詳しい。見れば誰かわかるにしても、名前さえイニシャルにしたこの絵を公開するには戦争に負けるまで待たなければならなかったとは驚く。いかに国家権力が大杉栄を恐れていたのかわかろう。

 

 

神近市子はいくら出していたのか

 

vivanon_sentence当初、大杉栄が出そうとしていた新雑誌に熱心だった神近市子でしたが、大杉栄と伊藤野枝とがこの計画に熱意を注ぐとともに、おそらくは仲間はずれにされた気分になったようで、その計画に反感を抱くようになってました。

 

 

そして、自分は別に宮島(資夫)の細君の麗子君と一緒に、何にかやらうなどとも云ってゐた。しかし、それも麗子君にはあまりよく賛成されず、又窃かに頼みにしてゐた青山菊枝君(今の山川夫人)からは態よく拒られて、彼女は半ばそれを断念すると共に、其の口惜しさのあまりを僕らの計画の上に反感として向けもしたやうだ。そして其の上に彼女は、僕等の計画の上に、また僕や伊藤の上に、どうしてそんな金が出来るものかと云ふ侮蔑や冷笑も持ってゐた。

実際僕等は随分困ってゐた。そして僕や伊藤が困りきっている時には、いつも神近が助けに来てくれてゐた。そんな場合の十円か二十円の金すらも工夫の出来ない僕や伊藤に、数百円と云ふまとまった金の出来る筈のない事を思ふのも、彼女としては当然の事であった。そして、今から思へばかうも邪推されるのであるが、彼女はそれを知りぬいてゐて、郷里まで金策に行くと云ふ伊藤に二度までも旅費をかしたのであった。

 

 

ここでは「かした」という表現になっているので、旅費については伊藤野枝が返済しているのだろうと思います。

伊藤野枝が家を出て、御宿で一人で暮らすことになり、たまたまそこに大杉栄が行っており、予定していた伊藤野枝の原稿料が払われず、大杉栄も見動きがとれなくなっていた時に救いの手を差し伸べたのも神近市子でした。

 

 

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