松沢呉一のビバノン・ライフ

「M君リンチ事件」という名称—リンチの歴史[1]-(松沢呉一)-3,322文字-

 

 

「日本を撃て!」で語ったこと

 

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昨年(2017年)9月にネイキッドロフトであった山口祐二郎プロデュース『日本を撃て! 日本を考える爆裂トークイベント!』の第一部では山口祐二郎、清義明らとおもに「しばき隊系カウンター勢力」についての反省点を語り合ったのですが、何を話したか3日で忘れました。

当初予定していた男組の高橋組長が欠席し、その代役として出演依頼した人たちが断ってきたために急遽前日に祐二郎から声がかかって、あまり興味がないことを前提に参加したため、私は何も準備をしてませんでした。

なおかつ、そのあと他の予定が入っていて、第一部でそそくさと帰ったため、私自身はたいした話はしてません。私が把握していない内容も多かったため、聞いているしかない時間も長かったですし。

しかし、おもに私の発言以外で、さらに詰めた方がいい点がいくつかあって、あの時の文字起こしを清義明が公開するということになったのですが、実行されず。清義明の「事実誤認」があったため(私はそれを判断できないのでカッコつき)、公開しにくかったのか、たんに面倒になったのでありましょう。

男組の高橋組長が関わる内容が多く、亡くなった今となっては出す意味もないですが、あの中で語ったことでずっと気になっていることがあります。「リンチ」です。

※写真は『日本を撃て! 日本を考える爆裂トークイベント!』の告知に添えられたた山口祐二郎

 

 

「M君リンチ事件」という名称は不当か?

 

vivanon_sentenceM君リンチ事件」という名称を使っているのは暴力事件の被害者であり、民事裁判の原告であるM君とその支援をする人たちが中心です。

暴力事件の加害者側であり、民事訴訟の被告側はこの名称を否定しているわけですが、果たして、この事件において「リンチ」という言葉は妥当か不当か。

この事件については、手を出しておらず、それに関わる行為を手伝ったりもしておらず、つまりその行為に関与せずに、その場にいただけの人たちまでを民事訴訟で訴えることは不当だと私は思っています。訴えるのは自由ですけど、やりすぎだろうと。その場にいただけと言っても、加害者なり、被害者なりとまったく無関係ではないので、一切の責任がないとまでは言わないですが、裁判で決着をつけるような責任ではないので、刑事でも民事でも責任を問われていないのは当然だと思います。

しかし、あの事件で「リンチ」という言葉を使うのは、日本における「リンチ」の用法に照らしておかしくはない。使いたくない人は使わなければいいとして、使う人たちは間違ってないと思っています。

ただし、こういう齟齬が生じるには経緯ってもんがあります。ここでM君サイドが想定している、「五人による集団リンチ」は、裁判でも否定されているわけですから、リンチではないと言えましょうけど、あくまで「M君サイドが考えているようなリンチではない」ということであって、「リンチではない」とまでは言えない。

といったように、私なりに考えていることがあって、ネイキッドロフトでも簡単に話したように思うのですが(曖昧な記憶)、「なぜ日本国民は大政翼賛に走ったのか—心のナチスも心の大日本帝国も抑えろ[5]」で取り上げた鬼畜米国 被抑留邦人にきく(昭和十八年)を読んでいる時に、リンチという言葉が出てきました。ちょうどその前後に、当該事件の高裁判決が出たことも後押しして、「この言葉はいつからどのように日本に入ってきて定着していったんだろう」と思って国会図書館のサイトで調べ始めたら、好奇心を刺激することが次々と出てきて、せっかく調べたんだから、出しておくかなと思い立った次第。

以下その成果を見ていきますが、言うまでもなくこの事件の解決を目的とするのではありません。こんなもんで解決するはずもなく、裁判所にお任せするしかない。私はただ好奇心による、純然たる言葉の整理をしただけです。同様の例は他にもあるでしょうけど、「リンチ」という言葉が日本に移入されて定着していく過程での意味のズレが大変面白いのです。もうやっている人がいるかもしれないですけど、私は私でやっておきます。

Nick RussellBig Lake Lynching さすがリンチの本場米国では多数のリンチの本が出ております。リンチの木(次回参照)をデザインしたものが多い。

 

 

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