松沢呉一のビバノン・ライフ

「エロス+虐殺」を許せなかったのも伊藤野枝への嫉妬か?—伊藤野枝と神近市子[12]-[ビバノン循環湯 474] (松沢呉一) -5,432文字-

神近市子ハ助平ダナ—伊藤野枝と神近市子[11]」の続きです。

 

 

 

一生消えなかった伊藤野枝への嫉妬心

 

vivanon_sentence平塚らいてう著『現代の男女へ』(大正六)掲載「私の知ってゐる神近市子さん」は、戦後の神近市子についてまで予期していたとも言えて、この一文に登場する神近市子像はその内面に相当迫っているのかもしれないと思わせます。

つまり、神近市子は、平塚らいてうが喝破した「抑圧→暴発→後悔」というパターンのうちの後悔パートを事件以降ずっと続けていたのではないか。事件の大きさゆえにそれまで以上に強く自分の欲望を押さえつけ、押さえつけたがために他人の欲望までを押さえつけないではいられなくなったのでしょう。

彼女の内面では、大杉栄とともにセックスをし続け、その子どもを残し、最後にともに死ぬことができた伊藤野枝への嫉妬が死ぬまで消えなかったのだと思います。晩年には穏やかな表情をした写真が多いですが、その内面は若い頃のままでした、おそらく。

学生時代に矯風会に出入りしていたにしても、戦前、売買春問題に取り組んだことがあるとは思えない神近市子が、自身を苦しめていたような人々と手を組んでまで、売防法制定に向かったのは伊藤野枝に対する嫉妬であり、抑え込んだ性欲によるものだったと見るのがもっとも納得しやすい。

肉欲を抑え込んではいけない。

※富本一枝、佐多稲子、神近市子、村岡花子。ここから借りました。

 

 

「エロス+虐殺」で甦った「日蔭茶屋事件」

 

vivanon_sentenceそのことは以下のエピソードでさらに一層明らかになります。

一九七〇年、吉田喜重監督「エロス+虐殺」が公開されます。

 

 

「エロス+虐殺」予告編より

 

 

公開から八年後、大学生一年の時に、名画座でこの映画を観ていますが、あまりに長くて(三時間半)、ほとんど寝ていたので、内容はまるで覚えていません。大杉栄も伊藤野枝も神近市子も日蔭茶屋事件も、少しは知っていたかもしれないですが、この辺に興味を抱くようになるのは数年あとなので、映画を観た時点では正確には把握していなかったはずで、その状態でこの映画を理解するのは困難だったと思います。ただでさえわかりにくい映画なのに。

「エロス+虐殺」はYouTubeで全編観られますが、スペイン語字幕がついていて、スペイン語圏で発売されたビデオなりDVDなりを無許可で投稿したものだろうと思います。著作権はまだ切れてませんので。そのため、リンクはしないでおきますが、検索すると出てきます。

事件が起きた大正時代と、この映画が作られた「現在」との、ふたつの時間が同時進行する面倒臭い構成になっていて、このふたつの時間が時に交差し、かつ大正時代のシーンにも虚構が混じってくるため、よくわかってない「日蔭茶屋事件」について知るための映画としては適してません。

しかし、中に出てくる、大杉栄が堀保子に求婚する時、自分の着物に火をつけたという話も、大杉栄の遺骨が右翼に盗難されたことも史実です。大正時代については、映画のラスト以外のストーリーやエピソードの八割くらいは史実かと思いますし、とくに日蔭茶屋に着いて以降、凶行までについてはおおむね大杉栄が書いた通りになってます。

しかし、凶行のあとも続くラストの三十分は、いわば解釈としてのファンタジーになってます。これがまた長過ぎるのと、セリフが説明的で、芝居が前衛劇みたいになっていて、この部分はいらないと私は思いました(「現在の話」もいらないでしょう)。とくに事実関係を把握していない人たちにとってはワケがわからない。私が寝たのは当然です。もっとうんと早くに寝入ってましたが。

予備知識がないと理解しにくく、誤解も生じると思いますが、「ビバノン」を読んでいれば大丈夫かと思います。

 

 

「エロス+虐殺」を訴えた神近市子

 

vivanon_sentenceこの映画が公開されて、神近市子は名誉権とプライバシー権を侵害するものとして「エロス+虐殺」上映差し止めを提訴します。しかし、裁判所はこれを認めず(注)。

差し止めはめったなことでは認められず、認められると検閲になりかねないので、原則認められるべきではないと私は思っています。神近市子も「青鞜」に書き、新聞記者として記事を書き、刑務所から出てきてから自身の雑誌を出し、戦後も評論家という肩書きで新聞や雑誌で活躍した表現者です。戦前自分らの表現を獲得するのかで婦人運動家たちや社会主義者たちがどれだけ奮闘したしたのかを知らないはずもない。それが差し止め請求をするんですから、呆れたものです。エロ雑誌の規制を求めていた人ですから、そんな程度の人ってことですが。

 

 

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