松沢呉一のビバノン・ライフ

亡くなってから知った見沢知廉との共通点—追悼会の夜-[ビバノン循環湯 482] (松沢呉一)-2,878文字-

連合赤軍と八鹿高校と新右翼—リンチの歴史[6]」に見沢知廉が登場します。面識はあったのだけれど、一緒に仕事をしたことはなく、長時間話したこともないので、生前、生身の見沢さんについて書いたことはおそらくなく、もっとも長い文章は亡くなってあとだったと思います。

調べてみたら、当時、「アクションカメラ」でやっていた連載の一部で追悼会のことを書いていました。掲載された文章はもっと短く、その代わりに荒木経惟が撮った遺影や会場の様子や最後に出てくるヘルス嬢の写真を出していたはず。そのヘルス嬢は見沢さんとは直接にはなんの関係もないのだけれど、エロ雑誌なので、そんな時でもエロは不可欠。ひどい展開ですが、事実、この通りだったのです。このエピソードが見沢知廉と私の最大の思い出かもしれない。

わざわざ再録するほどの原稿でもないのですが、リンチ殺人をやった人を知るために循環しておきます。2005年のものです。

 

 

見沢知廉の追悼会

 

vivanon_sentence一ヶ月前に自殺した見沢知廉の追悼会があった。今年も次々と人が死んでいく。

見沢知廉とは親密な交遊があったわけではないが、担当編集者が一緒だったことが何度かあって、また、ほとんど同世代ということもあって(あちらがひとつ下)、会った回数の少なさ、会っていた時間の短さのわりに親しみがあった。

おそらくあちらも同じで、決して雄弁な人ではないのだれけれど、会うと人懐っこく話しかけてきたことを思い出す。

内容までは覚えていないのだが、電話だったか、会った時だったか、「どうしてオレにそんなことまで言ってくるのかな」と思うようなことを言ってきたこともある。とくに迷惑ということではなくて、何かの相談だったかもしれない。

見沢知廉は新右翼に入る前は新左翼の戦旗派に属していた。見沢知廉が離れた数年あと、大学生だった私は戦旗派と交流があったので、その時にでも、あるいはもっとずっとあとであっても、少しだけ何かがズレていたら、もうちょっと深いつきあいになったのではないかとの感触もある。

 

 

見沢知廉の文字

 

vivanon_sentence現実にはこうやって書いていても、とりたてて思い出すような出来事などありはしないのだが、はっきり思い出す見沢知廉のエピソードは文字だ。何かの時に送られてきた葉書(年賀状だったか)に添えられた文字がとにかくひどかった。判読不能なのである。

「どこどこの先生は字が汚くてどうしても誤植が増える」「どこどこの作家は担当者編集者以外の人には読めない」なんて話を聞くことはあるけれど、あれほどひどい文字は見た記憶がないというくらいひどい。

私も人のことは言えず、とくにメモの文字は自分でも読めないことがあるが、人に見せる場合はもっとマシだ。

あまりの悪字だったために、編集者に「原稿もああなのか」と聞いたこともある。

「そうですよ」と編集者は見沢知廉の原稿を見せてくれた。これも同じくひどい字であった。

「でも、慣れますよ」と編集者は言う。崩れ方はつねに同じなので、その癖さえつかめばいいのだ。

それにしても私を含めて大半の書き手がワープロやパソコンで原稿を書いている時代だ。そういう書き手こそ早く手書きを脱した方がいいのだが、見沢知廉は「作家」という形にこだわりの強い人のようにも感じた。ライターよりも作家、ノンフィクションよりもフィクションである。作家は原稿用紙に万年筆で書くのが決まりだ。

見沢知廉は思想的に三島由紀夫に共振していただけでなく、作家としての三島由紀夫になりたかったのだろうと思う。そしてなれなかった。

 

 

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