松沢呉一のビバノン・ライフ

『淪落の女』に見る「堕落」—松崎天民が見た私娼の現実[1](松沢呉一)

万事を通じて自由であることが理想—実業家にして社会改革論者・秋守常太郎[下]」からゆるくつながっています。あのシリーズではパターナリズムに基づく救済活動は根本的な解決にならないことを秋守常太郎の主張から確認しました。宗教はパターナリズムに陥りやすい。「真理を知っている私たちが、目醒めていない人たちを救済する」という関係に自己満足を覚えるわけです。それでは解決しないことをさらに見ていきます。

 

 

 

松崎天民の売春に対する姿勢

 

vivanon_sentence明治時代を代表するジャーナリストの一人と言っていい松崎天民の売買春に対する姿勢はとらえきれないところがあるのだが、「売春は否定されるべきである。しかし、公娼制度に反対する知識人や宗教団体にも反対する」とまとめられよう。

「では、どうしたらいいのか」についてははっきりと自分の考えを述べたものを見ていないが、公娼制度の問題点については「新施設」を提唱して悪質な業者を放逐し、よりよい労働環境にするため、私娼や芸妓らを含めて、公娼制度の拡大と改善を求める意見を肯定的に紹介している。売春はなくならない。なくそうとすれば事態はかえって悪化する。であるならば、よりよい制度に改良すべきという考えだ。

この部分は秋守常太郎の遊廓官営論にも近い。秋守常太郎は遊廓官営論とともに遊廓を廃止した上で売春自由放任論も唱えていた点が松崎天民とは決定的に違っていて、GHQの力がなければ農地解放ができなかった、つまり絶望的な貧困を自力では解消できなかったこの国では、秋守常太郎が主張する土地国有化も望めなかったのだから、この問題の根底にある貧困を解消はできない。であるならば遊廓を官営化することで環境改善をした方がいいというのが秋守常太郎の主張だったわけだ。

対して、松崎天民は、私娼の実情を追い続けてきたため、「公娼ではなく、私娼にこそ問題あり。しかしながらその解消は容易ではない」という考えをもっていた。天民は吉原を「道徳的」として肯定してもいる。ここにおける「道徳的」は、ルールに基づいているということだろう。私娼は無秩序であり、無法である。公娼制度をなくせば私娼が増えるだけであって、事態はいよいよ混迷して解決は遠ざかる。だから、問題を見据えないまま、公娼制度に反対する人たちを強く批判している。

 

 

『淪落の女』に見る私娼の実情

 

vivanon_sentence松崎天民による、私娼をテーマにした「探訪(ルポの意味)」の代表作は『淪落の女』(大正元)である。「淪落」は堕落のこと。

天民の身の回りで起きた話をまとめた第三話「お小夜の行方」と、ルポと言っていい最終話「十二階下の夜」以外は、新聞記者として旅をする過程で接した私娼たちについて書いたもので、文学寄りの紀行文といった感触。「文学寄り」と書いたのは、事実の描写より、自身の事情や雑感が主になっているためであり、小説らしい情緒があるわけではなく、女の内面まで踏み込むわけでもなく、はっきりとした物語があるわけでもない。

 

 

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