松沢呉一のビバノン・ライフ

売春をする女たちの意思に気づいていた天民—松崎天民が見た私娼の現実[3](松沢呉一)

宗教、法律、教育では売春の問題は解決できない—松崎天民が見た私娼の現実[2]」の続きです。

 

 

 

前借を払ってもらってもどうせ家を出ていく

 

vivanon_sentence淪落の女』の第四話「さまよひの女」にはこんな話が出ている。

高崎で乗った電車に、三十代の金のありそうな男と若い女が乗っているのを見かける。この二人が下車したあと、他の客たちがその二人について話しているのが聞こえてくる。女は十七、八から男遊びを覚えて家を飛び出して、酌婦や芸者をやっていたのだが、親が連れ戻すために知人に前借を立て替えてもらい、その男が彼女を家に送っていくところであった

天民はその話と女の様子とを照らし合わせて、こう書いている。

 

 

一言にして尽くせば、曰く浮気者である。

地方を旅行して居れば、能くこんな類の女を見受ける。前借を払って貰って、父母の許へ帰った所で、それが何時まで続くことか。こんな女の行末は、何う始末をして宜いものやら、神様も並大抵のお骨折ではあるまい。

 

 

玉ノ井で私娼解放闘争をやった南喜一は、いくら女を救出して家まで届けても、家が貧しいために結局元通りになることを知って、この闘争が自己満足でしかないことに気づいたわけだが、女たちが同じ生活に舞い戻るのは、家が貧しいことだけが理由ではない。学のない女が働ける場は女工や女中くらいしかなく、だったら私娼になった方が金になり、楽しくもあるからだ。(「十二階下の夜」には「遠因近因」として動機の調査も出ていて、半数以上は「生活難」と答えているのだが、生活難の中身は「その他」が圧倒的に多くて、ここからはほとんど何も読み取れない)。

前借が条件ではなかった私娼において、扶養家族がいるわけでなく、金になるはずなのに前借が増えることがあるのは、騙されて前借を負わされたケースもあるのと同時に、男に貢いだり、自身で散財するためだ。風俗嬢として稼いでいるはずなのに借金が増えていくのが今もいるのと同じである。風俗嬢に限らないが。

この文章を読めばわかるように、天民は「こんな類の女」に呆れ、蔑視を隠していない。天民は、救世軍や矯風会のような表層的な物の見方をせず、現実を踏まえた評価をしており、女は意思のない人形であるとは決して思っていない。自ら「堕落」を選択することをよくわかっている。だからこそ、天民は蔑視をしている。自ら好んで売春をするような女を許すことができない程度には道徳的なのだが、そういう存在がいることを認めるくらいには現実的である。

 

 

天民の嘆きと諦め

 

vivanon_sentenceこの女だけでなく、この旅で出会った五人の女たちのことを思い返して、天民はこう嘆息する。

 

 

ああ「さまよひ」の旅に見る「さまよひ」の女の一生、こんなのは山にも居る、海にも居る、そして皆、判で押した様に、同じ道を歩いて、同じ路傍に倒れ、同じ墓場の土に化(な)り行くのかと思ふと、何とも云へぬ胸苦しさを覚える。宗教が何うとか、法律が何うとか、教育が何うとか、八釜しく詮議立てをした所で、「凄惨なる運命の縮図」とは、昔も今も行末も、未來永劫まで没交渉であらう。

 

 

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