松沢呉一のビバノン・ライフ

エビアン会議で見棄てられたユダヤ人—ポグロムから学んだこと[8](松沢呉一)

ヒトラーという男—ポグロムから学んだこと[7]」の続きです。

 

 

 

ニーメラーもかつてはナチス支持者だった

 

vivanon_sentenceルドルフ・ヘス著『アウシュヴィッツ収容所』を読んでいたら、収容所内のマルティン・ニーメラーの様子が詳しく書かれていました。ニーメラーは特別扱いでした。

 

 

彼は、ザクセンハウゼンでは独立房に収容され、ほとんど能うかぎりの抑留恩典措置を受けた。望むだけその妻に手紙を書くことも許され、彼女が毎月彼を訪ねることも許された。また彼が要求するだけの、書物、タバコ、日用品等も手に入れられた。その房の中庭を散歩することも許された。また、その房内も、すごしやすいようなされていた。

要するに、彼のためには、能うかぎりのことがなされたのである。所長も、彼の身辺に配慮し、彼のねがいをききとどけるように義務づけられていた。

(略)

肉体的には、彼は、抑留の全期間を通じて、好遇されていた。健康状態については十分の注意が払われ、その点では他の誰も比べものにならないくらいだった。

 

 

 

ヘスはこれに対して、とくにいいも悪いも書いておらず、脱走した人たちと並べて収容所の一エピソードとして、特別扱いの著名人であるニーメラーを出しています。

私は「ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき」の例のフレーズの主としてしか認識してませんが、当時のドイツでは、そのくらいにニーメラーは宗教者として大きな影響力をもっていたのですし、なおかつ彼は第一次世界大戦でUボートの艦長として活躍し、名を知られる司令官でした。

第一次世界大戦での戦功を讃えての高待遇であったのと同時に、以前はナチスの支持者だったため、転向する可能性があると見なされていました。ヒトラーもヘスもそう見ていたようです。

ニーメラーが反ナチスになったのは、1933年9月、ユダヤ人を教会から追放することに反対したのが始まりです。共産党の合法的弾圧は、同年2月、国会議事堂放火事件をきっかけに、共産党を潰す法整備がなされたことがきっきけです。これによってことごとくと言っていいほどの共産主義者が逮捕されています。つまり、この段階ではニーメラーはナチスに反対しておらず、なお支持だった可能性が高い。

よってあのフレーズを添削すると、以下のようになりましょう。

 

 

ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私はナチスを支持していたから

 

 

この頃までには揺れていたのかもしれないですが、ナチスを支持していたのに、ただの無関心であったかのように表現するのはちょっとズル。積極的に軍部に協力していたのに、一言も戦争反対の声を挙げ得なかった」などと戦後になって言ってのけた矯風会を彷彿とさせます。

矯風会は戦争が終わるまで一貫して軍部に協力していたのに対して、ニーメラーは戦争が始まる前に反ナチスに転じて、特別待遇だったとは言え、戦争が始まって以降も長らく収容所で暮らしていますから、一緒にするのはニーメラーに対して失礼すぎるか。プラス10とマイナス10くらい違いますけど、『我が闘争』で独裁政権にすること、ユダヤを排斥することをすでに宣言していたにもかかわらず、ニーメラーはナチスを支持していたことは覚えておいた方がよいかと思います。

 

 

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