松沢呉一のビバノン・ライフ

共産党員でさえナチス支持に回ったのはなぜか—『アドルフ・ヒトラー五つの肖像』より[1]-(松沢呉一)

 

 グイド・クノップ著『アドルフ・ヒトラー五つの肖像』

 

vivanon_sentence

ナチス・シリーズ」を書き始めて以降も関連書を読み続けているわけですが、まだ飽きそうにありません。読むたび、新たな発見があったり、新たな疑問が出てきたりします。同じ事柄について書いていても、書き手によってアプローチの違い、解釈の違いが出てくるのがまた面白い。ナチスをを扱うと著者の考えが色濃く出て、そのどこに読者である自分が共感するかで、自分の考えまでがくっきり見えてくるのです。

まさにグイド・クノップ著『アドルフ・ヒトラー五つの肖像』がそうでした。この本では第二次世界大戦でのヒトラーの判断ミスとその結果についても比較的詳しく記述されており、そのパートでは今まで知らなかったことが多数書かれていましたが、この本の読みどころは全体を貫く著者の姿勢にあって、私はそこに大いに共感しました。

この著者はドイツ第二テレビ(ZDF)現代史局長で、テレビ番組の企画を本にしたものです。ヒトラーという特異な存在だけではなく、しばしば特異な国民の心理にスポットを当てていて、ドイツ人として苦悩しながら、「なぜそんなことになったのか」を問うていく内容です。むしろ、こちらに重きがあります。

ヒトラーが希有な嘘つき、無責任な煽動家であることを強く批判したあとは「そのヒトラーをドイツ国民はなぜ受け入れたのか、なぜ反対ができた時に反対をしなかったのか」と問うのです。騙されたのではなく、自らヒトラーを信じようとした共犯者としての国民、そして加害者としての国民の現実を直視しようとする姿勢は、私の関心と通じます。

著者はどうしてドイツ人はいつまでもヒトラーの本を出し続けているのかについて「わたしたちはヒトラーを克服していない」と説明しています。ヒトラーがいかにひどいことをやったのかはもう十分わかったけれど、そのヒトラーをどうしてドイツ国民は支持してしまったのかについての分析はなお十分ではなく、国民もなお十分に理解していないってことでしょう。それがわからないと、この先またヒトラーが出て来てしまった時に対処ができないのです。

「二度と繰り返しません」と言うためには「誰が何をどうしてやったのか」を解明しなければならない。それをやらない限り克服はできない。日本も一緒です。「戦争は政治家と軍部がやった。国民は何も知らされていない無垢な被害者だった」という話がいつまでも語られてしまうことにうんざりします。責任の程度は全然違うのだから、国民は指導的立場にある人たちを批判していい。しかし、同時にそれを支持した人たちはそれに応じた責任があります。

 

 

 イメージとして存在していたヒトラーの強さ

 

vivanon_sentenceとは言え、「どうしてドイツ国民はナチスを支持してしまったのか」の解明はそう簡単ではない。結末を知っている戦後の人々が簡単に気づけることを、結末を知らない時代の人々は気づけないですから、その前提を等しくして考えていかなければならず、本書ではそれをやろうとしています。その方法として、有名無名を問わず、ヒトラーの時代を生きた人々の証言が多数掲載されており、私もそれを読んで、「今の時代とは違う時代の実感」が少しは理解できました。

著者の指摘でまず納得したのは、ヒトラーは、そしてナチスは中身が空疎なため、それぞれの立場からそれぞれに支持してしまったということです。

 

 

next_vivanon

(残り 2591文字/全文: 4016文字)

ユーザー登録と購読手続が完了するとお読みいただけます。

ウェブマガジンのご案内

会員の方は、ログインしてください。

« 次の記事
前の記事 »

ページ先頭へ