「サウンド・オブ・ミュージック」が長らくオーストリアで上演・上映できなかった理由—アンシュルスの複雑さ-(松沢呉一)
オーストリアで「サウンド・オブ・ミュージック」はタブー
私はミュージカルが苦手なので、観てないのですが、「サウンド・オブ・ミュージック」は、ナチス政権下のオーストリアから脱出したトラップ・ファミリー(Trapp Family)の実話をもとにしています。
実話が元になっているにもかかわらず。また、ナチス批判の内容であるにもかかわらず。長らくオーストリアでは映画の上映、芝居の上演はできなかったそうです。数日前に、新宿ゴールデン街のbar plastic model のマスターにそのことを教えてもらい、うちに帰って検索してみたら、Wikipediaに簡単な説明が出ていました。
実話ではあるものの、「ドイツによるオーストリア併合(アンシュルス)に抵抗するオーストリア人」という主題は、ヒトラー自身がオーストリア人であることをはじめ、当時大部分のオーストリア人がアンシュルスに積極的に加担していた史実を暗に糾弾して国民感情を逆撫ですることもあり、ドイツとオーストリアでの人気が高い上演『マイ・フェア・レディ』とは違って、ザルツブルグの観光客向け上演を除いては、同国での上演はタブーに近い扱いだったが、2005年にウィーン・フォルクスオーパーでドイツ語版が初めて上演され、その後も何度か再演されている。
今もなおおおっぴらに上演、上映はなされないみたいです。
アンシュルスとは
これを読んだだけでもまだわかりにくい。オーストリア人にとってのアンシュルス(Anschluss)と言われるナチスドイツによるオーストリアの併合自体がわからないと、なぜオーストリア人が「サウンド・オブ・ミュージック」をそうも嫌うのかがわかりにくい。
ナチスにとってアンシュルスは重要ポイントのひとつであり、ナチス関係の本では必ずと言っていいほど登場するため、私もだいたい理解できるようになってきています。細部はともかく。
その範囲でざっと説明しておきます。よって細部には間違いがあるかもしれないことをお断りします。
画家を目指してウィーンに出て強烈な挫折感を味わったヒトラーは、自分を受け入れなかった多民族都市ウィーンを憎悪し、これをドイツに組み込むことを悲願としてました。その個人的恨みだけでなく、大ドイツ思想からしてもドイツ語圏を統一するのは必然的な帰結です。
ナチス政権樹立当時のオーストリアの首相はエンゲルベルト・ドルフース(Engelbert Dollfuß)で、ナチスに不快感を示して、国内でのナチスの活動を禁止にします。この背景にあったのはキリスト教です。ドイツはもともとプロテスタントが強く、オーストリアはカトリックが強い。そのため、ドイツに併合されると、プロテスタントが入ってくると警戒されていました。
そこで、1934年、ヒトラーの意向を受けて、オーストリア・ナチスは時のドルフス首相を暗殺してクーデターを起こしますが、イタリアの妨害もあって、併合には失敗。ムッソリーニもカトリックです。
ドルフス亡きあと、クルト・シュシュニック(Kurt Alois Josef Johann Edler Schuschnigg)が首相に就任し(写真はシュシュニック。Wikipediaより)、シュシュニックもドルフス同様、反ナチスの姿勢を明確にしていたのですが、イタリアはドイツと軍事同盟を結ぶなど、状況が大きく変化していきます。国内の意識にも変化が起き、とくに若い世代でのナチス支持が拡大していきます。
ヒトラーはシュシュニックを恫喝していくのですが、シュシュニックはこれを跳ね退けていきます。恫喝では屈しないと見て、ナチスドイツは、1938年、難癖をつけてオーストリアに侵攻し、シュシュニック内閣は倒れ、アンシュルスは完成します。
アンシュルスのあとのシーン。
(残り 992文字/全文: 2723文字)
この記事の続きは会員限定です。入会をご検討の方は「ウェブマガジンのご案内」をクリックして内容をご確認ください。
ユーザー登録と購読手続が完了するとお読みいただけます。
会員の方は、ログインしてください。
外部サービスアカウントでログイン
Twitterログイン機能終了のお知らせ
Facebookログイン機能終了のお知らせ