ヒトラーの演説に人々が熱狂したのは言葉ではない—『アドルフ・ヒトラー五つの肖像』より[2]-(松沢呉一)
「共産党員でさえナチス支持に回ったのはなぜか—『アドルフ・ヒトラー五つの肖像』より[1]」の続きです。
ゲッベルスの手腕
ここまで読んできた本で、ヒトラーはただの独裁者ではなく、つまり、恐怖で国民を抑えつけただけでなく、自ら熱狂的に支持した人々が多数いたことは理解できました。どんな状況下でも、上に従って生き延びようとしたり、出世しようとしたりする人たちはいますから、ヒトラーに限らず、独裁政権ではそういうものですが、とりわけドイツでは、国民の側の支持が強かったように思えます。
グイド・クノップ著『アドルフ・ヒトラー五つの肖像』によると、ユダヤ人や共産主義者のあぶり出しが順調だったのはゲシュタポが優秀だったのではなくて、密告が多かったためだとしています。調査しなくても情報が集まってくる。いかに国民がナチスに協力的だったのかってことです。
もともと反ユダヤの考え方は国民に広く薄く浸透していて、それをヒトラーが拾い上げただけですから、自主的にそうしたところもありましょうし、宣伝のために存在する宣伝省なんてものがゲッベルスのために創設されて、徹底的にヒトラーの考え方を浸透させ、強化した賜物でもありましょう。
以下はゲッベルス発案の反ユダヤ映画「Der ewige Jude(永遠のユダヤ人)」。全編YouTubeで観られます。
https://www.youtube.com/watch?v=L-LMK6lyAoE&bpctr=1549796235
詳しくはWikipediaを参照のこと。
いい加減な映画で、ドキュメンタリーということになってますが、多くはすでにある劇映画から拾った映像にそれらしくナレーションをつけたものです。いい加減ではあるのですが、ユダヤ人は不潔で残酷であくどいというイメージが残るようになっています。
ローザ・ルクセンブルクの本名はエマ・ゴールドマンにされていて、それ、まったくの別人。ここは意図的ではなく、ただのミスだと思われます。ユダヤ系で左翼で女ってところは一緒だけれども、ローザ・ルクセンブルクは共産主義者、エマ・ゴールドマンはアナキストで、全然違う。
このいい加減さはナチスそのもの。事実なんてどうでもいい。事実だと言い張ればいい。イメージさえ広がればいい。ユダヤについてのさまざまが事実ではないのであれば、そもそもユダヤを憎悪し、排除する意味がなくなるはずですが、ヒトラーがそう言っているのだから、そこは抗えない。
これぞゲッベルスですし、ル・ボンの『群衆心理』を見事に実践したと言えましょう。
異常さも神格化を助けた
「反対者は抹殺する」「プロパガンダが巧み」「もともと国民の中にあった感情をすくいあげる」といったナチスのやり方が功を奏したのとともに、国民は第一次世界大戦の敗北、ドイツ革命による帝政の終焉、ヴァイマル共和国でのインフレや失業者の増大といった流れの中で、絶対的な存在を欲しがっていました。
これらが相俟って、ヒトラーは神に近い存在になっていくことが『アドルフ・ヒトラー五つの肖像』では鮮やかに描写されています。
こういうのが大事。どれだけの人をどのように殺したかも大事ですけど、ヒトラーがどう受け入れられていたのかを知ることが大事。
それがわかった時に、芝居がかったヒトラーの演説がどうして人を魅了する力があったのか少し見えてきました。大仰で芝居がかっていることを冷めて見てしまうのは、心理的群集の中にいない今の時代からであって、そこにいればそれこそに意味があったのです。
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