松沢呉一のビバノン・ライフ

25誌から30誌出ていたヴァイマル時代のクィア雑誌群—ナチスと同性愛[4]-(松沢呉一)

“クィア・エルドラド”ヴァイマル共和国—ナチスと同性愛[3]」の続きです。

 

 

エルンスト・レームが会員だった人権連盟と同性愛雑誌の関係

 

vivanon_sentenceヴァイマル共和国の時代には、ゲイ雑誌、レズビアン雑誌が25誌から30誌も出ていたなんてあり得るのだろうかと疑ってしまいました。英語ならともあれ、ドイツ語を読める人はドイツ、オーストリア、スイスなどドイツ語圏の人々+αしかいないわけで、当時の日本語話者総数とそう変わらないでしょう。文字が中心だった時代に、そんな数が出ていたとは俄には信じられない。

でも、検索すると、ホントみたいですよ。雑誌名まで多数確認できますし、表紙もさまざま出ています。

ナチス内同性愛派閥の首領、エルンスト・レームも会員だった「人権連盟」(Bund für Menschenrechte)も雑誌発刊に関わってました。同性愛関連の情報を集めたHomoWikiで、Bund für Menschenrechteを調べると、会員48.000人(!!)とあり、その会員としてSA代表のエルンスト・レームの名前だけが出ています。他に名を知られた会員がいなかったのではなくて、堂々と名前を出していたのが他にはいなかったのではなかろうか。さすがレーム。ナチス幹部でも褒めないわけにはいかないですが、ナチス幹部が「人権連盟」会員というのは笑えないギャグです。

この団体は1919年(1920年になっているものもある)「ドイツ友好協会連盟」(Bund Deutscher Freundschaftsverband)として始まります。ヴァイマル共和国誕生とともにスタートし、1923年からは「人権連盟」という団体名になります。

この代表だったフリードリヒ・ラツヴァイト(Friedrich Radszuweit)は婦人服の店を手広く展開していたのですが、団体の会員向けの月刊誌「Blätter für Menschenrecht(人権草子)」を発刊するようになります。

これを契機に、ラツヴァイトは出版社オルプリト(Orplid)を立ち上げ、女性向け週刊誌「Das Freundschaftsblatt (友情ジャーナル)」を発刊。この週刊誌は同性愛者向けではないようで、同性愛者向けの雑誌として「der Einsamen(孤独人)」「Das dritte Geschlecht(第三のセックス)」「Die Freundin(彼女) 」の3誌を発行。

これらは休刊時期もありつつ、同時に発刊されていて、スタッフが20人くらいはいたのではなかろうか。この編集部に注目すべき人物がいるのを発見しました。このシリーズの最終回に登場していただきます。

ラツヴァイトは結婚していましたが、自身、同性愛者で、1929年に妻が死去して4週間後、恋人であるマルティン・ブツコウ(Martin Butzkow)と養子縁組し、彼はマルティン・ラツヴァイト(Martin Radszuweit)名義で、同性愛雑誌「Die Insel(島)を発行しています

ここに出したのはDie Insel」1930年8月号これが8号とあります。この年の1月創刊でしょうか。「出せば売れるから、おまえもやれよ」ってところか。

フリードリヒ・ラツヴァイトは1932年心臓発作で死去。まだ50代でしたが、地獄を見る前に死ねてよかったかもしれない。

※上の書影は我が間接的元ネタのRobert Beachy著『Gay Berlin: Birthplace of a Modern Identity

 

 

レズビアン雑誌は8誌出ていた!

 

vivanon_sentenceラツヴァイトの店にそういった客が来ていたことがきっかけでしょうが、「Die Freundin 」には女装者向けの記事も同居していたようです。しかし、メインはレズビアン記事で、これが世界初のレズビアン雑誌になるようです。1924年創刊です。日本では関東大震災の翌年。

刑法175条の規制を受けないこともあってか、この当時のドイツではレズビアンの活動が活発だったようで、これ以外にレズビアン雑誌は7誌出ていました(!!!)。短期間で終わっているものもありますが、計8誌。1920年代後半から1930年代にかけて同時に5誌から6誌は出ています。

 

 

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