松沢呉一のビバノン・ライフ

エルンスト・レームが同性愛者であることが新聞で暴露された—ナチスと同性愛[5]-(松沢呉一)

25誌から30誌出ていたヴァイマル時代のクィア雑誌群—ナチスと同性愛[4]」の続きです。

 

 

 

ナチス追及の急先鋒ヘルムート・クロッツ

 

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しかし、夢のような時代は瞬く間に暗転していきます。クィアたちにとっても、エルンスト・レームにとっても。

検察はエルンスト・レームの同性愛行動をマークをしていました。ナチス政権樹立前ですから、ナチス幹部であろうとも関係なし。1930年に捜査に乗り出し、1931年7月にカール=ギュンター・ハイムゾート宅を捜査してレームからの手紙を入手。しかし、法律上、これだけでは立件できない。レームとて、その現場に踏み込まれるようなヘマはやらなかったようです。

この手紙は時の国務長官ヴィルヘルム・アベック(Philipp Friedrich Wilhelm Abegg)を経て、社会民主党の広報担当ヘルムート・クロッツ(Helmuth Paul Gustav Adolf Klotz)に手渡り、クロッツはこの手紙をもとに取材を進めていきます。

クロッツは初期ナチスのメンバーであり、1924年にはナチスから国会議員選挙に立候補しています。落選してはいますが、この時代はズブズブのナチス党員であり、反ユダヤの考えに毒されていたようです。

しかし、こののち、ヒトラーに批判的になって社会民主党(ナチスと対立していた左派政党)に転向、内情を知っているだけに反ナチスの急先鋒となります。やはりこの時代は、あっちに行ったりこっちに行ったりする人は少なくかったのです。とくに初期は、「国家社会主義」のうちの「国家主義」より「社会主義」に重きのあるナチス内左派も強かったため(ゲッベルスももともとこっち)、左派の居場所がありましたし。

ヘルムート・クロッツ

 

 

レームの手紙が新聞に公開される

 

vivanon_sentence1931年末にクロッツはレームの手紙を入手し、翌1932年、大統領選挙の直前、その手紙を柱にして、レームを中心としたナチス内同性愛人脈について暴露する記事を社会民主党系の新聞に書きます(社会民主党の機関紙と書いているものもある)。メディアが弾圧されるのは1933年2月の国会議事堂放火事件が契機ですから、この時点ではまだこういうことを書けました。

ヴィルヘルム・アベックは連立政権に参加していたドイツ民主党所属であり、妻はユダヤ系ドイツ人だったこともあって、ナチスの台頭を警戒していて、ナチスにダメージを与えるため、検察に捜査を依頼したのだろうと推測できます。同性愛者であることがここでも利用されたわけです。

反ナチスの立場であれ、これはどうなんかとも思うのですが、一方で刑法175条違反で捕まっている人たちがいたのですから、「身内に甘いナチス。法律違反を容認するナチス」という批判は成立しますし、肯定的アウティングの考えからしても、権力を持つレームが同性愛者であることをばらしたところで責められない。むしろ当然。権力者は下半身まで暴かれてもやむを得ず、同性愛者が除外されるのはおかしいですから。

同性愛が違法であることが間違っているというのであれば、レームは撤廃に尽力すべき立場であって、それが違法であることの責任は自身にあります。

隠したことがないレームとて、新聞に書かれたとなると事情が違ってきます。ナチス内の立場が悪くなる。とくにヒトラーはこういう醜聞を何より嫌いました。

 

 

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