松沢呉一のビバノン・ライフ

ブルンヒルデ・ポムゼルという役者—ブルンヒルデ・ポムゼルが残した言葉[8]-(松沢呉一)

国民の4割がホロコーストに気づいていたのに、ゲッベルスの秘書は「何も知らない」って……—ブルンヒルデ・ポムゼルが残した言葉[7]」の続きです。

 

 

 

ヒトラーという役者、ゲッベルスという役者、ポムゼルという役者

 

vivanon_sentenceキルシュバッハとの一件がなかったら、私も「これほど無知で鈍感な人もいたんだな」と思うだけだったかもしれない。しかし、この事実を知れば、「この人は無知で鈍感な人間を演じようとしている」と思うしかない。

彼女はゲッベルスを「卓越した役者だった」と評しています。たしかにヒトラーもゲッベルスも相当までに演じていた部分があったでしょう。しかし、彼女もまた「無知で無関心な女」を見事演じました。名演でした。しかし、最後の最後でユダヤ系の恋人のことを漏らしたのは役者としてのミスです。楽屋話のつもりだったのかもしれないですが、すべて公開されてしまいました。

彼女はある程度のことを知っていました。知っていてなお仕事を優先しました。金とプライドを手放したくなかった。あるいは知ってしまうと自身の良心として仕事を続けられなくなるため、知ることをやめました。そこには自分を捨てたユダヤ人という恨みも関係しているかもしれない。

彼女は自身の仕事内容について、詳細ではないながら、ところどころで語っていて、ただ会議に出席して速記をしていただけでなく、数字の改竄にも関与していました。その意味を考えなかったということなのでしょうが、考えられるのに考えなかったのは主体的な意思です。知らなかったことも同様。知ることができる立場だったのに知らないようにしていたのは意思があってできることであり、そのことで責任を逃れることはできません。一般の国民が知らなかったのとはワケが違います。

それでも彼女は無知・無関心な人間を装うことでしか「責任がない私」を維持できないと考えたのでしょう。そうしたところで責任から逃れられる立場ではなかったわけですが。

では、なぜ最後に語ったのか。このことが語られていない映画を自身で観て、なおかつ自分の死期が迫っていることを悟って、その欠落を埋めないではいられなくなったのではなかろうか。それは彼女の良心かもしれないし、ただただ「抜けがあるのが気持ちが悪い」ってことだったかもしれない。あるいは自身の人生がうまいこと映画になったことで安心してうっかり口を滑らせたのか。

このことから考えて、彼女が語る言葉はウソがあるとまでは断言できないながら、「薄々気づいていた」または「はっきり知っていた」→「全然知らなかった」くらいにアレンジされた部分が確実にありそうです。

そして、これは少なからぬドイツ人たちに共通する姿勢だったのだと思います。一般の人たちがそう言い張ったところで、ポムゼルとは責任の度合いが違いますが。

Wikipediaよりゲッベルス

 

 

「七〇年近く沈黙を守った」もウソ

 

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下の図版は80歳の頃のブルンヒルデ・ポムゼルです。

トーレ・D. ハンゼンによる『ゲッベルスと私──ナチ宣伝相秘書の独白』の前書きには「七〇年近く沈黙を守った」とあって、報道もそれをなぞっていますが、これは間違いで、1992年に放送されたテレビのドキュメンタリーに出演して、ゲッベルスが子どもたちを愛していたこと、にもかかわらず殺したことについて語っています。あっさり見つかったので、他にもまだありそうです。

国内では出にくかったのに対して、国外メディアのオファーは受けていたのかもしれないし、誰もオファーをしていなかっただけで、本人は沈黙する気がなかったのかもしれない。

おそらく後者だと思います。だって、この人、ゲッベルスの秘書と言っても、本人によると、親密な接点があったわけでなく、一対一で話したこともないんですよ。話を聴く意味がない。

 

 

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