新しい積極的な人生への闘いとしての売春—『街娼 実態とその手記』を検討する[7]-[ビバノン循環湯 517] (松沢呉一)
「セックスができて金ももらえて一挙両得—『街娼 実態とその手記』を検討する[6]」の続きです。
平安病院の看護婦からパンパンへ
cさん(24歳)は珍しい経歴の持ち主です。彼女は看護婦で、軍医候補生の許婚と初体験。しかし、敗戦で朝鮮から引き揚げて、H病院の看護婦になります。
原文はイニシャルですが、H病院は明らかに平安病院です。東京の吉原病院と一緒で、検挙された街娼が強制入院させられる病院です。病院で街娼たちの話を聞いたcさんは、[これぞと思い]、病院を辞めて米兵相手の売春を始めるのです。
西川口の本サロの店長が言ってましたが、西川口の託児所で働いていた女性が面接に来たことがあるそうです。西川口の託児所は、本サロ嬢、本ヘル嬢、ソープ嬢のお母さんたちが出入りしますから、彼女はそういう話を聞くうちに私もやりたいと思ったらしいのです。
いくら「悲惨な商売だ」「心がボロボロになる」などとキャンペーンを張ったところで、実態を知ってしまうと、「私もやりたい」と思ってしまうことをとめられない。そのキャンペーンがデマに近ければ近いほど、現実を知ってしまうことで、そういったキャンペーンを張る人々のウソに気づいて、「やってみようか」になる効果をもたらします。
cさんは付記に[醜女、よくあれで商売になるものだと思う]とまたまた書かれなくていいことを書かれていますが、[頭脳明晰、言語明快で云うことも筋が通っている]ともあります。確かに的確なことを言っているのです。
[◯・◯と関係して検挙されるのに日本人相手の女が検挙されないのは不可解な事ですし、検診の証明書を出して、それを持っている者は検挙しない様に、又すぐ帰れるようにして欲しいものです。職業証明書と検診証明書の権威を作ってくれたらと思います。それによって性病の予防もできるでしょうし]
条例または性病予防法ができるまでは日本人相手のパンパンは検挙されませんでした。単独で客待ちをしている場合に両者の区別はつきにくいので、ここまでにも出てきたように、日本人相手のパンパンでも検挙されていますが、あくまでこれは米兵の性病対策としてなされたものです。
※WILLIAM GOLDMAN Untitled, 1892 – 1900
道徳維持のために性病を利用
他にも、病気が怖いため、自主的に検査に行っているのがいます。いかに自主的に検査をしたところで、検挙されてしまうのですから、そうすることの意味がなくなってしまいます。検挙する方法は逆効果です。
いくら検挙したって限界があり、間違いで検挙されたことが契機になって売春を始めたり、顔を覚えられることで、売春生活を辞めても検挙されて他の仕事に就けなくなる不都合も、自主的な検査と証明書の提出で解消されます。警察の横暴に対する彼女らの反感も減り、互いの協力体制だって作れることでしょう。
しかし、警察は、進駐軍の命令を利用して、街娼潰し、女たち総体への脅し(女が一人で街をふらついてはいけない、米兵とつきあってもいけない。なにより自主性をもってはいけない)をしていたのであって、彼女らが自ら検査することで効果的な対策がとれるようになってしまうことこそ不都合だったわけです。
それでも進駐軍の方針ですから、反対はできなかったのはやむを得ないとして、これ以降、性病予防法に基づくの狩り込みがなされ、和パンたちも検挙されるようになっても、これに反対する人たちがいなかったことを見ても、社会全体が街娼を潰したくて仕方がなかったのです。
なぜ彼女らがさまざまなリスクがあるにもかかわらず、街に立ったのかを真摯に考えることなく、その背景にあった戦争やそれにともなう風紀粛正によって、自由を奪ってきたことの責任に向き合うこともなく、性病対策にとって何が有効なのかの議論もなされず、性病を理由として道徳を維持しようとしたのです。
※Courtesy Serge Sorokko Gallery/Glitterati Editions
新しい積極的な人生への闘い
と、ここまで具体例を縷々紹介してきたのは、思い込みが如何に人の判断力を鈍くするかを言いたいからであります。この調査は、そこからはみ出す人たちもいるにせよ、米兵を相手にする街娼を対象にしたものであって、パンパン一般の傾向とは少し違いますし、まして赤線・青線の女たちとは違いますが、それにしても、こういった実態が今までそのままの形で紹介されることが如何に少なかったか。時には精神異常者扱いですからね。
『街娼』の冒頭で、竹中勝男は、こんな例から話を始めています。
[昭和二十三年の暮れもせまった或る日、寒い午後、研究所の私たちはいつものように空箱をこわしてストーブにほり込んでいた。その時一人の三十二三の和装した上品な婦人が訪ねてきた][婦人は自分の本名や住所や家族の状態や経歴の大略を静かに話し、こういうことをしているのを恥ずかしく思っているといったが、それは心からそう感じているようであった]
この婦人は戦争末期まで大阪府の高級官吏の夫人として何不自由ない生活をしていました。夫は国立大学を出ていて、彼女は東京の高等女学校とその専攻科を卒業。ところが、空襲で夫は亡くなり、彼女と母と三人の子供は京都に移り住みます。
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