松沢呉一のビバノン・ライフ

「白バラ通信」に出てくる『我が闘争』—バラの色は白だけではない[1]-(松沢呉一)

 

「白バラ抵抗運動」とは?

 

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国軍や政党などの大きな組織を背景にしたものを除くと、もっともよく知られるナチス政権下の抵抗運動はハンス・ショル(Hans Scholl,)、その妹のゾフィー・ショル(Sophia Magdalena Scholl)の兄妹、クリストフ・プロープスト(Christoph Probst)、アレクサンダー・シュモレル(Alexander Schmorell)、ヴィリー・グラーフ(Willi Graf)、クルト・フーバー(Kurt Huber)の6名が処刑された「白バラ抵抗運動」(Die Weiße Rose)でしょう。「白バラ」は対ナチス抵抗運動の代名詞と言っていい存在です。

処刑されたクルト・フーバーはミュンヘン大学(ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン)の教授ですが、あとの5名はミュンヘン大学を中心とした医学生でした。

絶滅収容所での虐殺が始まった1942年から翌年にかけて、彼らはペンキで「ヒトラーを倒せ」とミュンヘン市内に落書きをし、6枚のビラ(うち「白バラ通信」とされるものが4種)を配布します。

6枚目のビラを配布したあと、残りをショル兄妹がミュンヘン大学で配布することになります。廊下にまき、最後にゾフィーが階上から踊り場にばらまいたところで建物の管理人(建物の管理人というのが何かよくわからず、職員と書いてあるものや警備員と書いてあるものもある)に発見されて、2人はその場で拘束され、ゲシュタポに連行されます。

これが1943年2月18日のことで、取り調べで、ハンスとゾフィーは2人だけでやったと言い張りますが、ハンスがその時にクリストフ・プロープストが書いた次のビラの草稿を持っていて、自宅にもクリストフ・プロープストからの手紙を置いていたことから、クリストフ・プロープストも逮捕されます。

2月22日に即決の裁判が行われ、その日のうちにハンス・ショル、ゾフィー・ショル、クリストフ・プロープストは断首されます。ギロチンです。

こんな時代にギロチンが使われていたのかと驚くところですが、ナチスドイツ時代には16,500人がギロチンで処刑され、戦後も西ドイツでは死刑が廃止される1949年まで使用され、東ドイツでは1970年代まで使用されていたとのこと(Wikipediaによる)。断首であろうと、絞首であろうと、野蛮なのは同じですが。

追って、クルト・フーバー、アレクサンダー・シュモレル、ヴィリー・グラーフも逮捕され、この年のうちに処刑されています。

これが「白バラ抵抗運動」の概要です。

Wikipediaよりミュンヘン大学の消せないビラ

 

 

インゲ・ショル著『白バラは散らず』を読む

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「ナチス体制からは逃げられない」と断言—ブルンヒルデ・ポムゼルが残した言葉[2]」に、ポムゼルが「白バラ抵抗運動」に対して何もしなければよかったのに」「黙っていれば死なずに済んだのに」と言っていることに憤慨したことを書きました。

しかし、この段階では私は「白バラ」についての本は一冊も読んでませんでした。何度か映画化されていますが、それらも観ていない。

それでもどこかしらで取り上げられてますから、学生時代から、ネチス政権下で反ナチスのビラを大学生たちが配布して処刑されたという話として理解はしていて、改めてネットに出ている情報でもそういうことであったと十分に理解できます。

シンプルな行動ですから、わざわざ本を買って読むほどのものではなく、他に読むべきものが多数あるので、白パラについては改めて読まなくてもいいだろうと思ってました。

 

 

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