「白バラ」が抵抗運動を代表する存在になった理由—バラの色は白だけではない[6]-(松沢呉一)
「ドイツ人とキリスト教のあまりに強いつながり—バラの色は白だけではない[5]」の続きです。
クリスチャンは命がけでナチスと闘ったのだ、みたいな
こうして戦後になると、ニーメラーの告白教会、フォン・ガーレンの説教、エホバの証人の徴兵拒否など、キリスト教内の抵抗運動が優先的に取り上げられ、「白バラ」もその流れに位置するのだろうと思われます。
エホバの証人は別にして、これらの人たちは少なくとも一時的にはナチス支持だったのだし、最後までナチス支持のプロテスタントもいたわけですけど、それらはなかったことにして、「キリスト教はナチスに抵抗した」という印象が作られていきます。
ハンス・ショルはヒトラー・ユーゲント時代に大隊長を殴った過去があるくらいで、すぐに手が出るタイプだった可能性もありますが、わかっているのはそれだけであり、「白バラ」の活動自体は非暴力です。
暗殺を計画したこともなかったでしょう。名門ミュンヘン大学ですから知的です。見栄えもよくて、不良とは違う(とは言い切れないところがあるので、そこはなかったことに)。軍隊に行っていても衛生兵が中心ですから、耳障りがいい。共産主義者でもない。しかも、「白バラ」。
「白バラ」(die Weiße Rose)というグループ名はグループ名がなかったことから戦後になって「白バラ通信」から名づけられたもので、ハンス・ショルの命名ということになってます。実際には別の人がハンスにサジェストしたらしいのですが、裁判ではそれは言えず、ハンスは適当につけた旨を語りつつ、詩、あるいは小説のタイトルからつけたことを示唆しています。元ネタが何にしても、ロマンチックだわね。
なによりここにはゾフィーがいます。インゲの記述によると、ゾフィーは第一弾の「白バラ通信」が大学で配布されたことを知って、兄ハンスがやったのだと気づくのですが、ここは現実とは少し違っていそうで、「白バラ通信」は学内配布はされておらず、郵送のみのはずです。不特定多数へ配布したのは5弾目と6弾目だけではないかと思われるのですが、ともあれ、ゾフィーはあとからの参加であることは間違いない。落書き作戦もゾフィーは参加してません。
しかし、本の表紙はゾフィーであり、映画もゾフィーをフィーチャーしています。
「21歳のうら若い女」は「白バラ」のピュアなイメージ作りに大いに貢献したでしょう。ナチスが作り出した、また、ナチス支持者たちが戦後も作り続けた「祖国の裏切り者」という抵抗運動の悪いイメージを払拭するのには格好の存在だったわけです。おっさんやおばさん、じいちゃんやばあちゃんではダメです。
そこを尊重して、ゾフィーの写真を出してみました。
転機になったレーマー裁判
「キリスト教の信仰」に基づく抵抗運動と、軍隊内の抵抗勢力から外れる抵抗運動は長らく取り上げられることがなく、抵抗運動の範囲が拡大されて調査され、評価されるようになる頃にはすでに記録が失われ、当事者も亡くなって、正確なことがわからなくなってしまった例が少なくありません。
1944年7月20日の暗殺計画に関与した国軍のグループは、1952年のレーマー裁判によって名誉を回復し、以降は大統領や首相も彼らに対する追悼演説をしています。
レーマー裁判は、戦後早くも息を吹き返したネオナチ政党「社会主義帝国党(Socialist Reich Party)」のオットー・エルンスト・レーマー(Otto Ernst Remer)がヒトラー暗殺計画を反逆者と愚弄したことを巡る裁判です。
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