松沢呉一のビバノン・ライフ

ガードが甘くて処刑された人たちとガードをしても処刑された人たち—ビラがつないだミュンヘンとハンブルク[2]-(松沢呉一)

ゲシュタポのスパイだったモーリス・サックス—ビラがつないだミュンヘンとハンブルク[1]」の続きです。

斜体のかかった人名は「白バラ・リスト」に項目がありますので、詳しくはそちらを参照のこと

 

 

 

リヒトヴァルク学校の役割

 

vivanon_sentenceハンブルクにはハンブルクの特性がありつつ、ミュンヘンとの共通項にも気づきます。社会運動を作り出す条件が共通している。

ハンブルク大学とミュンヘン大学という大学が拠点になっていることもそうです。ハンブルクは社会人が多かったため、こちらは医療関係者が多く関与、ミュンヘンは医学生が多く関与。人の命を粗末にするナチスに対抗することは当然だったとも言えますが、ンス・ショルは命を粗末にしすぎました。

それぞれに拠点高校の卒業生が中心になっているってことも共通しています。

ハンブルクでは、学校も自由な空気が強かったようです。「ドイツ人とキリスト教のあまりに強いつながり—『我が闘争』を読んだ人たち[5]」にハンブルクで宗教教育の改革が行われている話を紹介しましたが、これはハンブルクの伝統であり、それが引き継がれています。

1986年にハンブルク美術館の館長に就任したアルフレッド・リヒトヴァルク(Alfred Lichtwark)が主導した芸術教育の運動があって、この教育運動を実践するリヒトヴァルク学校(Lichtwarkschule)はリヒトヴァルクの遺志を引き継ぐ形で1920年に創立されました。自由、芸術、理想を追い求めたリヒトヴァルクの考え方に共感する教師たちがこの学校に集まっていたため、反ナチスの拠点になります。

ナチスが台頭するとともに弾圧されて、校長を含めて教師たちは次々と解雇され、1937年には閉校に追い込まれてしまうのですが、この学校の元教員たちや卒業生たちが抵抗運動を担っていきました。

ハンブルク・グループの重要人物であるエルナ・シュタールはリヒトヴァルク学校の教員でしたが、ヒトラー式の敬礼を拒否して逮捕され、有罪判決を受けてます。解雇されて以降も、教え子であるトラウテ・ラフレンツらとともに抵抗運動を続け、1943年12月4日、白バラの流れで逮捕され、終戦直前の1945年4月14日に米軍によって解放されています。

Alfred Lichtwark, Fotografie von Rudolf Dührkoop, 1899

 

 

抵抗運動と書店の関係

 

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そして集まれる場が書店だったこともミュンヘンとハンブルクの共通点です。

ハンブルクでは国外の文化、新しい文化を取り入れる空気が強く、その窓口になる書店も強く、書店に抵抗運動の人々が集ってきて、広くて、ゆるいネットワークが形成されていきます。ハンブルクではFelix JudAgentur des Rauhen HausesConrad Klossといった書店がその役割を果たします。役割を果たしたがために、これらの書店のオーナーやスタッフも多数逮捕され、逮捕がきっかけで亡くなった人もいます。

日本の社会運動でも本や雑誌を媒介にして人とつながることはあって、版元に執筆者と読者が集まって議論が闘わされたなんて話はありますが、書店に人が集まって運動体になっていくことなんてあったのかなあ。地下が集会場になっている書店なんてなかったでしょうから、店主の紹介で少数の人がつながるくらいじゃなかろうか。

新宿紀伊国屋のようにホールがある書店はありますし、ジュンク堂のようにトークイベントができるスペースがある書店もありますけど、書店に集会ができるようなスペースがあるのはドイツ、あるいはヨーロッパの特性でしょうか。

 

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