松沢呉一のビバノン・ライフ

ヒトラーが信用したのは死者だけ—ナチスはどこから何をパクったのか[3]-(松沢呉一)

ナチスとトゥーレ協会の関係—ナチスはどこから何をパクったのか[2]」の続きです。

 

 

 

メラー・ファン・デン・ブルックの第三帝国

 

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オカルティズムとは関係のない話から。

第三帝国という言葉はそれまでにも存在していたのですが、神聖ローマ帝国、ドイツ帝国に次ぐ帝国を仮想する考え方は、メラー・ファン・デン・ブルック(Arthur Moeller van den Bruck)が著書『第三帝国(Das Dritte Reich)』(1923)で提示したものです。その前にディートリッヒ・エッカートが使用していたようで(Wikipediaによる)、これをナチスが採用して自分らこそが「第三帝国」だと主張して、ナチスの代名詞的な用語になっていきます。

これについてはスタン・ラウリセンス著『ヒトラーに盗まれた第三帝国』に詳しい(この本は素人に陰毛が生えた程度の私が一読して複数の初歩的な間違いを見つけているので、信憑性については若干疑問符がつく)。この本ではエッカートが先に使っていたとの記述はなくて、エッカート、そしてナチスがメラー・ファン・デン・ブルックから盗んだという論調になっています。そんなに強く非難しているわけではないのは、エッカートの方が先だったことを著者が知っているからかも。

メラー・ファン・デン・ブルックの『第三帝国』では国家主義と社会主義の合体も、社会ダーウィニズムによる弱肉強食も説かれています。上に見たように、社会ダーウィニズムの導入は帝政時代からあったものですけど、第三帝国の名のもとにこれらを統合したのはメラーです。ナチスはそのまんまこれを転用したので、総合的にパクリと言えなくはない。

ドイツでもその存在は知られていないようですが、メラーは相当の才人と見受けられます。文学、政治、歴史などのジャンルで多数の著書を出し、また、多数の翻訳書を手がけていますが、人気作家にはなれないまま、先天性梅毒のために精神に異常を来して、1925年に亡くなっています。49歳でした。

 

 

メラーとエッカートに共通するのは死者であること

 

vivanon_sentenceメラーとヒトラーは会ったこともあり、ヒトラーは協力を要請していますが、メラーは断っています。メラーにとってヒトラーの印象は相当に悪かったようで、ナチスとヒトラーを批判する文章も公表しています。ヒトラーはそれでもメラーの思想には執着があったようで、亡くなって以降は急速に忘れられたメーラーの代わりに、ナチスは「第三帝国」と名乗り出します。

始まりは全権委任法が成立した直後のようです。つまりは第三帝国が誕生したのだと宣言。

ヒトラーが自決したあとの机の上にはヒトラー宛の献辞と署名を入れたメラーの著書『第三帝国』が開かれたまま置かれていたそうです。座右の書であり、最後に見たのがこの本だったようです。ヒトラーにとって、メラーは亡くなったが故に、それ以上裏切らないという安心感があったのかもしれない。

ヒトラーに盗まれた第三帝国』では梅毒で亡くなった著名人の名前を挙げていますが、エドガー・アラン・ポー、ニーチェなどは「梅毒説もある」って程度で、この中ではっきり梅毒で亡くなったことがわかっているのはモーパッサンです。先天性梅毒により、42歳で亡くなってます。

メラーと同じ40代ですから、早死にではありますが、先天性であっても、そう簡単に脳に至るものではなくて、遊廓の中で梅毒で発狂することも死ぬことも難しいのです。余談でした。

 

 

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