松沢呉一のビバノン・ライフ

ドイツ人とキリスト教のあまりに強いつながり—バラの色は白だけではない[5]-(松沢呉一)

ナチス推奨の「積極的キリスト教」と帝国教会—バラの色は白だけではない[4]」の続きです。

 

 

 

ナチスとカトリック

 

vivanon_sentenceカトリックとナチスの関係もまた複雑です。前回見たように、マルティン・ルターは当初カトリックの反ユダヤ主義に反対の立場をとっていました。この時代はカトリックも反ユダヤだったわけです。それがそのまま近代まで維持されていたわけではないですが、そういう潮流が脈々とプロテスタントにもカトリックにもあったことをまずは確認。

プロテスタントが国教だった時代にはカトリックは迫害されていて、プロテスタントはカトリックと結婚することさえ許されないことがあったらしい。帝政が倒れてもドイツでは圧倒的にプロテスタントが強く、国民の7割近くがプロテスタントであり、カトリックはマイノリティでした。

ナチスの初期には、カトリックはナチスの党員になることを禁じていたため、ナチスはこれを敵視し、カトリックの教会を攻撃します。カトリックがナチスの党員になることを禁じたのは、良心なのか、プロテスタントに対する服従になることを嫌ったのかは不明。

ところが、1933年3月13日にはミュンヘンのミヒャエル・フォン・ファウルハーバー(Michael von Faulhaber)大司教がボリシェヴィキと対峙するヒトラーの姿勢を賞賛し、カトリック系の政党であるドイツ中央党は全権委任法に賛成して、3月23日、ヒトラーの独裁政権樹立。中央党が賛成しなかったら、全権委任法は成立せず、独裁政権も成立しなかったのです。

反共産主義は広くクリスチャンの共通認識でしたし、ナチスのプロパガンダもあって、共産主義を容認しているようにとらえられたヴァイマル共和国の否定もまた多くのクリスチャンに共有された意識でした。

ヒトラーの独裁政権に協力したカトリックは、3月30日にナチスの党員になることを禁止していたことを解除しています。ナチスに完全屈服です。

その上、同年7月20日、ヴァチカン教皇庁はヒトラー政権と政教条約(ライヒスコンコルダート)を締結したことによって聖職者は手足をもがれます。これはヴァチカンが組織維持を図ったためと思われ、聖職者の政治的な活動を禁じる内容が盛り込まれていました。

中央党とバイエルン人民党が抵抗することもなく解散したのも、この条約と関係していそうです(バイエルン人民党はカトリック系の地方政党で、ナチスの連立政権に参加した国政のドイツ人民党とは別です。政教条約締結直前にどちらもなすすべもなく解散しているのですが、おそらく情報は得ていたのでしょう)。

ナチスが条約を守るはずがなく、むしろこの条約によって難癖をつける余地ができて、カトリック教会はしばしば攻撃を受けます。それでも一部では抵抗は続いて、強制収容所に送られた聖職者もいるのですが、大多数のカトリック教会は抵抗ができませんでした。

John Heartfield, On the founding of the State Church (June, 1933) これはハートフィールドがプラハに逃げてからのものかと思います。下に書かれているドイツ語は「十字架はまだ十分ではなかった」といった意味

 

 

戦後、キリスト教が果たした役割

 

vivanon_sentence「カトリックはナチスに弾圧された」との表現をしてあるものが時々あって、たしかにそう言える部分もあるのだけれども、「カトリックはナチスに協力した」と言える部分もあり、「カトリックはナチスに屈服し、抵抗することを放棄した」と言える部分もあります。一部プロテスタントのように自ら積極的にナチスを支持したわけではなく、ナチスの迫害に屈したに過ぎないにせよ、この事実を無視してはならないでしょう。

カトリック教会生き残りのために抵抗を封じ、政教条約締結の相手としてナチス政権を公認したヴァチカンの責任は重いのですが、戦後の展開を見ると、その読みは正しかったかもしれない。

 

 

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