松沢呉一のビバノン・ライフ

ヒトラー・ユーゲントが必然的に生み出した反逆者たち—スウィング・ユーゲント[中]-(松沢呉一)

ビートルズとスウィング・ユーゲント—ビラがつないだミュンヘンとハンブルク[上]」の続きです。

斜体のかかった人名は「白バラ・リスト」に項目がありますので、そちらも参照のこと

 

 

 

スウィング・ユーゲントのまとめ

 

vivanon_sentenceスウィング・ユーゲントについてはWikipediaがまた充実していますが、日本語版がないので、これ以外の資料を合わせてまとめてみます。

ナチスは、1935年に退廃芸術展を開催します。続いて1937年に退廃音楽展を開催し(右のポスター参照)、ユダヤ音楽、ユダヤ人の作曲家による音楽、黒人音楽などを退廃音楽に指定。

スウィングをナチスが嫌ったのは、人種的な問題とともに、キャバレー音楽として発展してきたこともあるようです。つまりはヴァイマル的、享楽的なのです。

以降、退廃音楽(Entartete Musik)に対する弾圧が強まっていきます。また、1935年には国外のラジオを聴くことが禁止されています。

スウィングスは、それまでのスウィング・ファンを母体にしつつ、ちょうどその流れと逆行するように、ハンブルクで1937年くらいからはっきりとした形をとり始めます。まさにこの街はドイツにジャズが上陸した場所でした。そして、ハンブルク、ベルリンのキャバレーやレビュー・ショーで、ジャズ、スウィングが受け入れられていきます。

対して、ナチスの価値観としては、スウィング・ジャズは、黒人やユダヤ人に作曲され、演奏される退廃音楽であり、青少年がこれに興ずることは好ましくなかったのですが、警察はこれを厳しく取り締まることをしてませんでした。

山下公子著『ヒトラー暗殺計画と抵抗運動』に、これを禁じにくかった事情が書かれていました。

 

「スウィングス」そのものは、一九三七年後半から一九四二年夏にかけて、スウィングジャズに合わせて踊るダンス「スウィング」を愛好し、派手な振舞いで世間、とりわけ秘密警察を騒がせた青少年男女の呼び名である。類似のグループが他の都市にもあったというが、最大で典型なのはハンブルクのグループであった。

ヒトラー時代のイデオロギーでは、ジャズは「黒人」の音楽であり、卑しむべきものとされた。その一方、国民啓蒙宣伝相のゲッベルスは、自ら命じてジャズのビッグ・バンドを編成させている。このバンドは主にラジオ放送用で、「前線の兵士の志気の鼓舞」のために演奏したり、後にはジャズの歌詞を書き替え、国民社会主義の主張を込めたものにして、イギリス向けに流したりもした。

したがって最初のうち「スウィング」禁止を求めるヒトラー・ユーゲントの試みは、余り警察の協力を得られなかった。ハンブルク市当局が「スウィング」を禁止したのは一九三九年夏である。

 

 

スウィング自体が禁止されたわけではない

 

vivanon_sentenceドイツでも間違った情報が流れていて、火消しをしている人たちがいますが、スウィング自体は禁止されていないみたいです。

 

 

この看板はスウィング・ダンス禁止と書かれてますが、リンク先にあるように、1970年代に作られたレコードジャケットから始まって誤解が広がり、このような看板も作られたそうです。

 

 

next_vivanon

(残り 1902文字/全文: 3249文字)

ユーザー登録と購読手続が完了するとお読みいただけます。

ウェブマガジンのご案内

会員の方は、ログインしてください。

« 次の記事
前の記事 »

ページ先頭へ