松沢呉一のビバノン・ライフ

なぜ白バラはただの共感では済まなかったのか—抵抗の定義[下]-(松沢呉一)

エルンスト・レームはレジスタンスか?—抵抗の定義[上]」の続きです。

 

 

信仰による兵役拒否はレジスタンスか?

 

vivanon_sentenceヒトラー暗殺計画と抵抗運動』では、具体的にその定義の変遷、拡大を説明してくれておらず、私もスウィングスが抵抗運動であることの枠組みたいなものをきれいには説明できない。レームをレジスタンスとは呼べない私は、「では、どうしてスウィングスはレジスタンスか」を言葉で説明することもまた難しいことに気づきます。

直接的にはナチスを倒す具体的な方法をとっていたわけではなく、個別に反ナチスの考え方をもっていたとしても、それを外に向けて表明していたわけではないですから、白バラのようなものと並列にはできないでしょう。

軍部の抵抗と同じく、下からの抵抗も定義は難しいってことです。たとえば思想に基づく良心的兵役拒否はレジスタンスになり得るとして、ただ「かったるい」というだけで兵役を拒否したり、押し入れに隠れたりすることはレジスタンスなのか、みたいな話です。

実のところ、エホバの証人の兵役拒否も私はレジスタンスなのかどうかわかりません。思想的兵役拒否でも同じかもしれないですが、ナチスに反対して兵役を拒否するわけではない。宗教であれば非信者には通じないただの信仰上の規範に従っただけであり、それがナチスに対抗する英米軍であっても、ナチスの支配下にあったパリのレジスタンス闘争も拒否するだけです。いかにナチス打倒に有効であっても、彼らはそれを選択しない。

また、エホバの証人は軍隊に対して拒絶反応を示しただけで、それ以外の場面ではナチスに柔順でもありました。だから、アウシュヴィッツ強制収容所の所長だったルドルス・ヘスもエホバの証人を使いやすい人材として自宅で使用していたわけです。

といったところを見た時に、信仰だからレジスタンスであり、かったるいっただけではレジスタンスではないと言えるのかどうか。

ここにどうしてもひっかかりのある私としては、ショル兄妹の行動を信仰の結果とする人たちに対しては、彼らの行動を貶めているようにも感じてしまいます。彼らの彼らの信念で動いたんじゃないんかと。その信念を貫くことにおいて信仰が支えになったのだとしても、それは支えにすぎません。

※『Different Drummers: Jazz in the Culture of Nazi Germany』スウィングスの決定版的な本らしい

 

 

「何を目指すのか」を考慮するしかない

 

vivanon_sentenceあきらかに抵抗する意義がある体制においては、動機を問わず、レジスタンスなのだとしてもいいですけど、こういう認定は戦後顕彰したり、年金を支払ったり、補償金を支払ったりすることの基準になりますから、なんでもかんでも認定することは難しい。もちろん、個人にとってはそんなことはどうでもいいので「これはレジスタンス、あれは違う」と認定していけばいいわけですが、私は何事も定義や筋ってもんが気になるのです。

非戦時において強盗をやってきた犯罪者が、その延長で戦時に軍隊から金目のものを盗み出し、軍人を殺害したらレジスタンスか? たまたまその相手がナチスの幹部だったらレジスタンスとして誉め称えられるのか? 強姦犯がドイツ女子同盟の制服に欲情して、ドイツ女子同盟の少女だけを襲っていてもレジスタンスか? といった議論がどうしても必要になります。

現実にスウィングスは反ヒトラー、反ヒトラー・ユーゲント、反ナチス、反徴兵、親ユダヤ、親同性愛だったりしたわけですけど、全部が全部とは言えないでしょう。一部、ハンブルク・グループとのつながりを持っていたところで、たったの3名か4名。スウィングスは数千人、あるいは全国では万かもしれないけれど、その中の3人か4人で全体を規定できない。他の抵抗グループに参加したのもいたにせよ、それで全体がレジスタンスになるわけでもないでしょう。

 

 

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