松沢呉一のビバノン・ライフ

ダッハウの虐殺—理由があれば人は人を殺せる-(松沢呉一)

強制収容所から生還してもポグロムで殺された—ポグロムから学んだこと[5]」の続きとして書いたものですが、話が広がり過ぎるかと思って外しました。しかし、これはこれで考えるところが多いテーマなので、いまさらながら出しておきます。

 

 

 

解放されたあとで起きたダッハウの虐殺

 

vivanon_sentenceポグロムについて調べていく延長で、私自身も冷静さを失って人を殺すかもしれない状況を突きつけられました。

ナチスの強制収容所が解放された際に、あまりの惨状を見て冷静さを失った連合軍兵士が捕虜を射殺するケースが起きていて、ダッハウの虐殺と言われる事件がとくに知られます。

ダッハウ(Dachau)収容所はミュンヘンの近くにあって、1933年、ミュンヘン警察長官だったハインリヒ・ヒムラーが設置。アウシュヴィッツよりも規模が小さいながら、設置が早かったため、他の収容所のモデルになっていきます。そのため、強制収容所としては、アウシュヴィッツの次くらいに名前がよく出てきます。

まずここで強制収容所を体験して、他の収容所の所長になったのも多くて、のちにアウシュヴィッツ収容所の所長になったルドルフ・ヘスが最初に収容所を経験した場所でもあります。

終戦直前の1945年4月29日米軍はダッハウ収容所に達しました。そこでは2,000を超える遺体が列車の中や屋外に放置されていました(白骨化したものを含む)。証言をとられないように、逃亡直前に駆け込みで多数を虐殺した模様。これを見て米兵たちは気分を悪くするもの、激怒するものが続出。

残った一部ドイツ兵は抵抗を続け、米兵との銃撃戦となります、収容所は親衛隊の管轄なので、このドイツ兵は国軍ではなく、親衛隊だと思われます。小規模な銃撃戦が続く中、一方で米兵は興奮の中で捕らえたドイツ兵や収容所職員を殺してしまいます。一体何人のドイツ兵や看守が殺されたのかはっきりせず、下は数30人から50人、上は500人以上まで大きな開きがありますが、無抵抗の捕虜が殺されたことは間違いがなさそうです。

これに対して米軍は調査はしたものの、裁判は行われず、処分はなし。

※解放されたダッハウ収容所。死体は収容者のもの。World War II Todayより

 

 

圧倒的な力、圧倒的な正義があってもやってはいけないこと

 

vivanon_sentence銃撃戦が続いている中のこととは言え、監視塔に残った数名のドイツ兵が抵抗していただけで、あとはすでに降伏しており、米軍側には負傷者が出ていないようですから、戦闘の中でのことと見なす余地はほとんどなさそうです。一部降伏したドイツ兵で武器を持っていたのがいた、また、逃亡しようとしたのがいたとも言われますが、全員が全員ということはないでしょう。何より積み重なる遺体を見て冷静さを失ったためのものです。

まず私は「しゃあないべ」と思いました。収容所の職員や親衛隊はさんざんひどいことをしてきたのだから、何をされても文句は言えまい。かつ、偶発的なものですから、親衛隊のように捕虜を組織的に虐殺していったことと同じではない。

大量の死体を見て頭に血が上るのは十分理解できます。私もその場にいたらそうなりそうです。それよりも言葉を失って何もできなくなるかもしれないですが、しゃあないとまず思ってしまいました。米軍の調査はなされても、裁判にはならず、処分もなしという結果も、対ナチスについてはしゃあないだろうと思ってしまいます。

しかし、Wikipediaをよくよく読むと、そこからさまざまなことが想像されてきてしまいます。

この部分。

 

収容所所長マルティン・ヴァイスSS大尉は正規の看守や守備隊を引き連れ、米軍到着以前に収容所を脱出していたという。所長代行となったハインリヒ・ヴィッカーSS少尉には560人の人員が与えられていた。これは収容所内に設置されていた親衛隊員用懲罰房の収容者やハンガリー義勇兵などであった

 

正確に補足しておくと、直前までエドゥアルト・ヴァイター(Eduard Weiter)親衛隊中佐が所長で、4月26日に逃亡。そのあとを引き継いだマルティン・ヴァイス(Martin Gottfried Weiss)大尉も28日か29日に逃亡し、残されたのがハインリヒ・ヴィッカー少尉でした。彼は23歳の下っ端であり、所長代理になって1日か2日なのです。

マルティン・ヴァイスはすぐに捕まっていますが、先に逃げたエドゥアルト・ヴァイターは、オーストリアまでは逃げて、その地で死亡しています。

上のもんは早く逃げ、早く逃げたたもんは遠くに行けて、ナチス幹部には南米まで逃げて、最後まで捕まらなかったのもいるわけです。

下っ端は逃げられずに捕虜になる。そして、その場で射殺される。

下っ端であっても親衛隊は今まで敵の捕虜にそういう扱いをさんざんしてきたのだから、文句は言えないですけど、残されていたのは懲罰房に入れられていた親衛隊員とハンガリー人です。彼らの多くは闘う気なんてなくて、だからすぐに投降したのでありましょう。なのに殺された。

懲罰房に入れられていたのは「仕事をさぼって酒を飲んでいた」「隊員同士で不満を囁き合っていた」「同性愛行為をしていた」といった隊員だけでなく、「あまりの惨状に職務放棄をした」「脱走の手助けをした」なんて隊員も入っていたかもしれない。

収容所の記録を読むと、収容者が逃亡するのを手助けした親衛隊員が実際にいるのです。たいていは買収されてのことだったようですが、買収されたのだとしても、収容所に対しての疑問を抱いていたからではなかろうか。

収容されていた人が買収する金を持っているのが不思議ですが、金ではなく、物です。収容所に送り込まれた人たちは、持っていた金目のものを没収されます。これらはドイツ本国に送られて活用されるのですが、その選別や貨物列車に積み込む作業は収容者たちがやります。その時にちょろまかす。そういうのを貯め込んでいるのがいて、末端のドイツ兵だって貧しいですから、それをもらって脱走に協力する。

そういうのがいたかもしれないのに、虐待の末、虐殺しました。

Wikipediaよりダッハウでの銃殺現場。公的には脱走兵の処刑ということになっているとあります。ナチスの捕虜虐殺もなんらかの名目がつけられていたのと一緒。足下に見えるのはすでに処刑された死体だと思われます(下の写真参照)。ここでは12名射殺されたことが確定しているよう。World War II Todayより

 

 

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