松沢呉一のビバノン・ライフ

婦人参政権を得て投票した先は…—ナチスと婦人運動[2]-(松沢呉一)

ヴァイマル共和国時代に登場したフラッパーたち—ナチスと婦人運動[1]」の続きです。

 

 

ドイツの婦人運動

 

vivanon_sentenceナチス登場までのドイツの婦人運動団体を代表する団体としてドイツ女性協会(BDF/Bund Deutscher Frauenvereine)がありました。

1888年に前段の活動が始まっておりブルジョア女性たちが当初の中心で、政治活動はしてはならない規則になっていました。1908年まで女性の政治活動が禁止されていたためであり、それに反すると、BDFも解散に追い込まれることを恐れたためです。

 

 

Bund Deutscher Frauenvereine 1907

 

 

この写真を見ればどういう層の人たちかよくわかります。

社会環境や法が変わったにもかかわらず、この会の原則は続いたため、社会主義者たちはこの会に参加できませんでした。その分、婦人参政権に反対する保守層が参加していたため、活動は全体的に保守的なところに留まりました。

道徳の向上禁酒の推進などを掲げ、それでも一方では社会進出は肯定し、労働条件の向上を求め、のちには婦人参政権を求めるようにもなります(この時にプロテスタント系団体に所属する女性等の多くは脱退している)。道徳の向上、禁酒の推進という点を見ても、日本の矯風会あたりと重なる存在でしょう。プロテスタント系の女性らが力を持っていた時代に限れば矯風会そのものか。

この会に所属していたような人たちが前回の引用文で取り上げられていたドイツの婦人活動家だろうと思われます。ヴァイマル時代に登場した新しい女たちの動きを苦々しく眺めていた層であり、それらを風紀の乱れとしてとらえ、ナチスの登場を歓迎した層でもありました。

売春に関わる法や同性愛に関わる法が改正される前に、政権成立とともに、ナチスは綱紀粛正に乗り出し、この辺の保守層がそれに便乗していきます。

 

 

婦人参政権を得ても投票する先は保守政党

 

vivanon_sentenceさんざん「女言葉の一世紀」で見てきたように、日本の婦人運動家の多くにとって「自分たちが世に認めさせようとたたかってきた女性の価値」は子どもを産み、育てる特性をもっと高く評価しろというものでした。だから、多くの婦人運動家たちは産児制限にも積極的ではなく、山田わかにいたってはマーガレット・サンガーを嘲笑さえしました

女の自己決定を促進する立場ではなく、既存の道徳を守り、その中でのり権益拡大を図ろうとしたのがこれらの婦人運動家たちです。この点では、女流教育家の多くも同じです。

彼女たちは戦時体制に背くことなく、むしろこれを好機ととらえました。ここも日本とドイツは似ていますが、ドイツが日本と決定的に違ったのは、1919年に婦人参政権を実現したことです。選挙の結果、社会民主党・中央党・ドイツ民主党が連立政府を樹立したのを受けたものであり、婦人運動家の成果というより、ヴァイマル共和政の成果とした方がいいのだと思うのですが、その結果は相当に寒々しいものでした。

 

 

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