松沢呉一のビバノン・ライフ

全体主義に抵抗するために時間をかけて考える—懲戒の基準[27]-(松沢呉一)

武蔵野美術大学は勝海麻衣の卒業を取り消すべきか否か[下]—懲戒の基準 26」の続きであるとともに、「児童生徒の読解力は落ちているのか?」シリーズや「ナチス・シリーズ」の続きでもあります。「懲戒の基準」シリーズの結論みたいな内容でもありますが、休憩と思っていただければ。

 

 

 

私のバイアス

 

vivanon_sentenceここまで見てきたように、東京芸術大学と武蔵野美術大学の責任について、私はただただルールの確認をしただけです。

前者については「大学が何もしないとしても批判できない」後者については「大学が何もしないでいるのは批判する」という対照的な結論になったわけですけど、前者は「学生が学外でやったこと」、後者は「学内の授業でやったこと」というところに違いがあって、この違いは決定的です。現役の学生であり、悪質な盗用であることが確定しても、私的領域に学校側が安易に踏み込んではならず。武蔵野美術大学については卒業しているにもかかわらず、また、盗用が確定していないにもかかわらず、なんらかの対応が必要になる。

この判断において「所属する組織が個人の領域に踏み込むことは慎重であらねばらない」という私個人の考え方が反映されている可能性は否定しません。まさにこれが「懲戒の基準」というシリーズを始めたきっかけですから。

そういう感覚がない人だと、「東京芸大も処分すべし」と感じるかもしれず、私としても訓戒程度の処分をしたところで批判はしません。停学でも批判はしないか。ルール上、退学にしてもいい条件が揃っているとも言えますが、そこまで至ると抵抗が生じそうです。希有なパクリ屋であっても、全部きれいに片を付けて出直せばいいと思っていて、退学は一生が変わってしまうので、出直しが困難になってしまいかねないことに抵抗があります。

会社や役所でも、業務外の行為で免職・解雇になっていいのはよっぽどのことであって、学生も同じです。

深井智朗は立場が立場ですから、あの処分は適切であり、そのためにすでに人生が変わってしまいましたが、それでも出直せばいいと思っています。二度三度とやったらもう消えるしかないでしょうが。

※この花については下記参照

 

 

理解されにくいことの諦め

 

vivanon_sentenceもともと私は私的領域と公的領域に線を引きたがる方で、たとえば職場が私的領域に入り込んでくることに対する拒絶反応があります。大げさだと思われましょうが、全体主義に対する拒絶です。

たとえばその抵抗が生ずるのは「法に則らない民間の懲罰の方が怖い—懲戒の基準[3]」に出したような例です。「軽微とは言え刑事事件化する可能性があること」「CATVの会社の職業倫理に触れる可能性があること」「公開された映像によって、その内容が確認できること」「弁明の機会を自身が放棄したこと」「数日間無断欠勤したこと」などから、解雇もやむなしの例だとも思うのですが(自分で望んで収入まで語っているので、職場がバラされてもやむを得ないかもしれないし)、そういった検討なくして、解雇が当然であると考える人たちに対してはやっぱり私の警戒心が作動します。

法的には会社の規定次第のため、もし裁判になったらどうなるかわからないですが、停職が妥当であり、解雇は不当という判決は十分にありそうです。

あるいは金子恵美議員(当時)が自ら公的特権を私的領域に持ち込んだことに対して強い拒絶があったのも同じです。ここに線引きができない人は信用できない。

しかし、私の警戒心はなかなか人にはわかってもらえないものなのかとの諦めもあります。組織が個人の領域に入り込むことを警戒すること自体が理解されにくい。「ヘイトスピーチはダメだろ」で終わってしまう。「育児は大変なんだから、特権を利用して何が悪い」と考える人々の群れを前に絶望するしかない。

稀ではあれ、希望を持てる瞬間もあります。

ハンナ・アーレント著『全体主義の起源』の元版

 

 

next_vivanon

(残り 1772文字/全文: 3414文字)

ユーザー登録と購読手続が完了するとお読みいただけます。

ウェブマガジンのご案内

会員の方は、ログインしてください。

« 次の記事
前の記事 »

ページ先頭へ