松沢呉一のビバノン・ライフ

ヘスも収容所から脱出できなくなった—ルドルフ・ヘス著『アウシュヴィッツ収容所』を読む[5]-(松沢呉一)

鞭打ちを正視できなかったルドルフ・ヘス—ルドルフ・ヘス著『アウシュヴィッツ収容所』を読む[4]」の続きです。 

 

 

 

人間的ではないとナチス幹部たちも思った

 

vivanon_sentence1938年、ザクセンハウゼン(Sachsenhausen)強制収容所の副所長に任じられたことによって、ヘスはこの組織から離れる契機を失います。この頃、ヒトラーはやることなすことうまくいっていて、ヘスもナチスに対する信頼を高めていた上に、副所長になったことで、収容者と直接の接点を持たなくてよくなったのです。収容者への虐待はもう見なくていい。なかったことにできる。

とは言え、重要なポイントでは立ち会わなければならず、ヘスはザクセンハウゼンで、戦争が始まって初の処刑に立ち会うことになります。処刑されたのは飛行機工場で防空作業を拒否した工員でした。見せしめの意味合いもあったのでしょうし、親衛隊を引き締める意味合いもあったのでしょう。工員は銃を撃たれ、ヘスがとどめの一発を撃ちます。

鞭打ちも正視できないヘスですが、慌ただしかったこともあって、撃つこと自体は平気だったよう。しかし、あとになって心に迫ってきます。

 

執行に立ち会った指揮官全員は、そのあともなおしばらく、集会所に坐りこんだままだった。異様な空気で、話はいっこうに出てこず。皆それぞれ自分の物思いにふけっていた。(略)

居合わせた者は皆——私をのぞいて——かなりの年輩で、第一次大戦にすでに将校として参加し、SSでもすでに古参の指導者で、ナチ党の闘争時代の演壇闘争でも立派な働きをしていた人物ばかりだった。そういう彼らでありながら、たった今体験したことには、皆、深刻な印象を受けていた。

 

たった一人でも言葉が出ないほどのショックを受ける。ナチスの高官たちも普通の人たち。

これ以降は連日のように処刑の指揮をとることになります。しかし、これらは裁判もなにもなく、警察から送り込まれてきた怠業者や兵役拒否者を右から左に殺すだけであり、収容者のように人として見ないまま、苦しむところも見ないですぐに終わる。鞭打ちと違います。

ある日、親衛隊の指導者が送り込まれてきます。彼は元共産党員を逮捕し、収容所に護送することになった際に、その元共産党員と顔見知りだったため、家に帰って着替えをとってきて、妻に別れを告げることを許可したところ、男は逃亡してしまい、その責任をとらされて処刑に。この時はハイドリヒも嘆願を出しているのですが、ヒムラーはこれをはねつけました。

これをヘスが処刑。所長とともにヘスはそのあと所内を長時間歩き回り、ヘスは「人間的ではない」と感じます。これは他の親衛隊指導者たちも同様で、自分らは処刑役人ではないと不満の声を上げたのですが、これをアイケ(この時は強制収容所全体を統括する立場)は叱責し、それらの不満を漏らした者たちは以降、出世することはなかったそうです。

状況に慣れたというより、状況に自身を慣らすことを覚え、不満を表に出さないことで、自身が追放されたり、処刑されたりすることを回避することを学んでいきます。なにしろ、それまで自分と同じ立場にいた指導者が処刑される現場を見てしまっているのです。簡単に自分もそこに転び得る。逃げても同じことになる。

こうなると、副総統だった方のルドルフ・ヘス(Rudolf Walter Richard Heß)のように、飛行機に乗ってイギリスに逃げ込むしかない。

Wikipediaよりザクセンハウゼン収容所の門

 

 

アウシュヴィッツの所長に

 

vivanon_sentence1940年、ポーランドに絶滅収容所としてアウシュヴィッツ収容所が建設されて、ヘスはそこの所長となって、いよいよ収容者との接点はなくなります。

これはとくにナチスだけの特性ではないでしょうが、汚い部分をトップは見ない。見るとしてもたまに視察をするだけです。所長は同じ敷地にいると言えども、アウシュヴィッツはビルケナウを筆頭に、大きな三つの収容所があり、その労働力を頼りにする工場が立ち並ぶ広大な施設群ですから、幹部は収容者を目にしないで済む。

 

 

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