松沢呉一のビバノン・ライフ

「イマジン」の納得できない点とTOKYOレインボープライド2019の納得できなかった点—ボツ原稿復活-(松沢呉一)

6月6日、渋谷ロフトヘヴンで開かれた10回目のMaking-Love Clubでは、いつものように中川えりなが進行役でさまざまな話をしていたのですが、この日は意見が割れる局面がありました。

そのひとつはレインボープライドの企業参加についてです。詳しくは次号の「Making-Love Club」に再録されるテキストを読んでいただきたいのですが、他国でも企業参加、商業化については議論があって、対策がなされていることもあります。これは企業が参加する他のさまざまな場面にも通じるいいテーマです。イベントに限らず、雑誌やテレビなどのメディアでも議論がありえるでしょう。

もっと議論して欲しかったのですが、満員の会場にいる人たちがどういう人たちなのか誰もわかっておらず、見た目でわかるのは、8割が20代前半まで、7割が女子ってことくらい。大半は大学生くらいの年齢に見えました。レインボープライドについて突っ込んだ議論をして、理解できるのがどのくらいいるのかもわからないので、いろんな考え方があるってことを提示できていただけで十分だったのかもしれない。

終わったあとで私もこれにもう少し話を補足しつつ、中川えりなも面識のある山縣真矢・TRP共同代表に、いろんな事情、いろんな議論について、一度話を聞くといいと勧めておきました。

私が補足したのは「自由学園に感激しました—TOKYOレインボープライド2019[上]」と「人が集まるブース・集まらないブース—TOKYOレインボープライド2019[中]」に書いたようなことです。私は企業参加に警戒しつつ、原則賛成ですが、その私でも「ここまでやるのはまずいんじゃないか」と思っていた今年の例を出しました。そしたら、その場にいた全員が「それはダメでしょ」と意見は一致。

このエピソードについては「TOKYOレインボープライド2019」シリーズ用に原稿をまとめてあったのですが、「おそらくなんとも思わない人が多いなか、わざわざ私の偏狭な意見を公開しなくていいか」と思ってボツにしました。でも、理解してくれる人たちがそれなりにいるみたいなので、改めて出しておくことにしました(Making-Love Clubチームはコスモポリタンが多いせいでもありましょう)。

全然関係ない話から始まります。

 

 

「イマジン」はどうして個人になることを理想にしなかったのか

 

vivanon_sentenceジョン・レノンが「イマジン」で夢想したのは宗教も国家もない世界だったわけですけど、なんで最後は「世界がひとつになる(the world will be as one)」にしてしまったんだろう。

世界は同じ神を信じる人々でひとつになると夢想する各宗教や、世界はゲルマン民族でひとつになると考えたナチスに対抗して、どうせ実現不可能の夢想であるなら、「世界はパラバラの個人になる」「人は一人になる」せいぜい「二人になる」として欲しかった。

もちろん、私も一切の国、組織、団体が消える世界なんてあり得ないと思っていて、バラバラの個しかいない世界では、それを支配しようとする集団が結束して、いくら数がいたって個はそれに対抗できずに支配されるのがオチ。それでもそうしていい局面では個人でいたい。個人が判断していいところでは個人が判断し、そこに集団を立ち入らせないことは可能。個を否定する集団には警戒することも可能です。それが十分にできていない現状では、「ひとつにならないこと」を見せておくべきだろうと思います。

全体がひとつになることを夢想する限りは、別の基準でひとつになると信じる人たちとぶつかって殺し合いますよ。宗教や国家がなくなっても、単一の価値観に支配された共同体を希求する人々がいる限り、今度は民族や思想でひとつになろうとするに決まっていて、どこまでも解決はしない。

この曲がリリースされた中学の時の私はこれっぽっちも疑問を抱かなかったですが、大人になってから、いざ歌詞を吟味すると、世界はひとつになんてなれないし、ならなくていいというところから始める私としてはあの歌詞のそこに疑問があります。

バラバラの個人に解体された果てに世界は凸凹のないフラットな世界になることを「ひとつ」と表現した可能性もあるでしょうけど、あれだけでは伝わらない。また、歌詞は歌詞を書いた人の思想信条と完全に合致しているわけではないですから、あれは歌詞としての落ち着きのよさを求めたにすぎず、「世界はバラバラの個人になる」という歌詞では理解されにくいので、「世界がひとつになる」とするしかなかったのかもしれないけれど、歌詞上のことであっても、ひとつであることが善であり美であるとの思い込みをまず捨てる提案をして欲しかったものです。

 

 

多様性ってなんだろう

 

vivanon_sentence「世界がひとつになること」を、あえて漢字で言えば「和」でしょうか。書道で一文字書く時に、とりあえず「和」とでも書いておけば落ち着きがいい。この時に「個」だの「孤」だの「散」だのと書いても落ち着かない。元号でも、「和でも入れとけ」ってことになる。

バラバラの人々の集まりであっても、そこには調和があり得るので、そういうものとして「和」を私も許容できるのですけど、誰もが同じである集団を「和」とすることには抵抗もしたくなります。

今まで繰り返してきた通り、多様性のある社会は、自己主張ができる社会であり、主張することが尊重される社会です。それによってこそ、自分と違う他者がそこにいることを認識し、認め合うことができる。あるいは理解することはできなくても、自分の価値観を押しつけなくてもよくなります。人は人、自分は自分。

こういう状態を「和」として見る分にはいいのですが、自己主張をすること、時にそれで波風が立つことは「和」に反すると見なし、「多様性のある社会を」と言う人たちの中には、「黙っていても自分が理解される社会」を求めているに過ぎないことがありそうにも思います。

 

TOKYOレインポープライドのパレードにてアムネスティの隊列

 

 

多様性のある社会は黙っていて理解される社会ではない

 

vivanon_sentenceこれについてはさまざまな局面で説明してきました。積極的合意—yes means yes」シリーズや下戸による酒飲み擁護」シリーズを読んでいただけると、多様性のある社会は「黙っていても理解される社会」ではあり得ないことがよくわかろうかと思います。隣にいる人がどんな価値観を持っているのかわからない社会においては、自分がどんな価値観を持っているのか相手にもわからない。であるなら、互いに自分自身は誰であるのか、どんな考えをもっているのかを申し出る必要があります。

黙っていても理解される社会は「ムラ社会」であって、口では「多様性」と言いながら、今なお巨大なムラ社会になることを求めている人たちがいます。それは「私」を主語にしなくていい社会でもあります。「ムラ」「みんな」「私たち」を主語にして事足りる。そんな社会に多様性などありません。抑圧的な社会です。

 

 

next_vivanon

(残り 2981文字/全文: 5893文字)

ユーザー登録と購読手続が完了するとお読みいただけます。

ウェブマガジンのご案内

会員の方は、ログインしてください。

« 次の記事
前の記事 »

ページ先頭へ