松沢呉一のビバノン・ライフ

創作力はないが、破壊力抜群の勝海麻衣が終わらせた虚構銭湯-[銭湯百景 10](最終回)-(松沢呉一)

最新型の銭湯には人がいっぱい-改めて「観光視点」と「日常視点」-[銭湯百景 9]」の続きです。パクリ職人が、ノスタルジーにまみれた虚構銭湯を自身の存在をかけて終わらせてくれたので、「銭湯百景」もこれで終わらせて、今後銭湯を取り上げる場合は別シリーズでやります。

 

 

 

銭湯は消えたことを惜しむ対象でしかなくなった

 

vivanon_sentence以前書いたように、新潮社の岑さんが、こんなことを言ってました。

あると利用しないのに、なくなると惜しまれる存在の筆頭が銭湯

銭湯という存在を端的に表現した言葉です。銭湯に行かない人たちにとっての銭湯は、「行く場所」ではなく、「惜しむ場所」なのです。「今ある存在」ではなく、「かつてあった存在」。今ある存在からかつてあった存在に移行する時になって初めて語り出す。

これは「昔はよかった」の変形でしょう。嘆くポーズをしたい。実際に銭湯がそうもいいなら日常的に行きますって。

そういった人たちにとって必要なのは前々回見たような「生きた銭湯」ではありません。「死んだ銭湯」あるいは「死にそうな銭湯」です。だから、銭湯のリニューアル・オープンの話題はほとんど流れない。潰れる時、潰れた時は惜しむ声が流れます。

私は「最後だから出かけていく」という趣味はなく、銭湯の最終日に行ったことは今まで一度しかありません。目黒区の銭湯に行ったらたまたま最終日だったことがあっただけです。

しかし、話の流れで、5月31日に浅草・蛇骨湯が閉店になるというので、知人らと出かけました。江戸時代からあった銭湯ですから、さすがに私も惜しみたくなります。

ものすごい人でした。大晦日に蛇骨湯に行ったことがあって、その時も混んではいましたが、その時の倍、あるいはそれ以上の混み方です。下駄箱もロッカーも空きがなく、露天風呂に入るためには待たなきゃいけなかったのですが、名残惜しむことだけが目的の人たちも多かったと見えて、その人たちは体は洗わないため、カランはそんなに混んでませんでした。ここの電気風呂はきっついので、そこもすぐに入れました。

今まで世話になった人たちが挨拶がてら行くのは当然として、ふだんは銭湯に行かない人たちも集まっていたでしょう。「死にそうな銭湯」が死ぬ瞬間に立ち会えますから、理想の銭湯がそこにはあります。

蛇骨湯のサイトより。これはタイル絵で、改装前から同じです。ペンキ絵より深みも個性もありましょう。

 

 

「時間ですよ」の時点で、すでに銭湯は変質し始めていた

 

vivanon_sentence蛇骨湯はタイル絵でしたが、イメージとしての「死にそうな銭湯」の壁には必ず富士山のペンキ絵があります。洗面器はケロリンか木桶。男湯と女湯の間の壁についているドアから子どもが男湯と女湯を行き来し、男湯から「そろそろ出るぞー」と声をかけると、女湯から「もうちょっと待って」と返事が戻ってくる。湯上がりの飲み物は牛乳、コーヒー牛乳、フルーツ牛乳。そんな銭湯です。

時間ですよ」の舞台のような銭湯。1970年代だと、まだ銭湯は儲っていましたから、続々鉄筋の高度成長期型銭湯ができて、木造銭湯も改装して、番台をなくしてフロント形式にし、待合室を設置し、薪から重油に切り替え始めた時代です。

しかし、虚構の舞台はそっちではなく、それ以前の銭湯が求められます。「昭和レトロ」などと言って、そのノスタルジーをあえて強調しているような銭湯は今もありますが、新しいタイプの銭湯は、多くの場合、男湯と女湯は完全に分かれていて、声を出しても聞こえない。古い銭湯だって飲み物は自販機になっていて、炭酸飲料やスポーツドリンク、お茶、野菜ジュースあたりが主流。つまり、その辺にある自販機と一緒です。缶入りの牛乳を見かけることもありますが、瓶入りの牛乳は相当に少なくなってます。今の銭湯では賞味期限が切れる前に売り切れない。木桶は私も好きですけど、30軒に1軒もないでしょう。

それでもまだ東京はそういう銭湯が残っています。大阪も人口当たりで東京と同じくらい銭湯があるのですが、私は木造銭湯に出くわしたことがない。京都には木造銭湯がまだありますが、東京とはまたスタイルが違っていて、メディアが今も好む「時間ですよ」タイプの銭湯、つまりペンキ絵の銭湯は関東だけです。

東京でも、そのタイプの銭湯は潰れていく一方だし、いざ古い銭湯に行っても、ボロボロで、客のいない銭湯が多いですから、頭の中の活気ある昭和の銭湯ではない。

銭湯に見る人間関係」シリーズに書いたように、紋切り型の銭湯記事がふりまく「ぬくもりのある人と人との出会いの場」なんて銭湯イメージは、いきなり銭湯に行く人たちにとっては無関係。かすりもしない。

銭湯の外でコミュニティが出来上がっている人たちの間では関係が密になる効果があるとしても、そういったコミュニティは、よそ者には冷たいですから、そんなもんを期待して行くと確実に裏切られます。そういったコミュティに属していない人は、たいていの場合、一人で行って誰とも会話せずに風呂に入って帰ってくることになります。私もそうです。

誤解しないで欲しいのですが、それがつまらないと言っているのではなくて、ボロボロでも会話がなくても客がいなくても銭湯は気持ちいいのです。

 

 

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