松沢呉一のビバノン・ライフ

研究者は覚醒剤をやるより研究で不正をやる方が問題が大きい—カンニングの仕組み[8]-(松沢呉一)

決定的な対策はないけれど、いくらか効力が期待できる対策はある—カンニングの仕組み[7]」の続きです。

 

 

 

著作権ルールと学術ルールを区別する

 

vivanon_sentence新入生の最初の授業で不正に対する処分についての説明をするのが有効であるのと同じく、なぜ大学において盗用は許されないのかを説明する必要がありそうです。処分の根拠の説明です。

「やってはいけないのは当たり前だろ」と思うかもしれないけれど、その「当たり前」は「人のものを盗んではならない」といった社会一般の倫理の延長としてとらえられているだけなのではなかろうか。著作権についてはざっくりそう言ってしまっていいとしても、学術分野ではまた別の論理が存在していて、大学においてはそっちが重要です

たとえば「高校までは授業をそのまま理解していればいい。単語や年号を覚えて、正しく公式を使って計算ができればいい。大学に入るための高校という意味では新規性や独自性はかえって無駄。しかし、大学は教育機関であると同時に研究機関でもあり、学部生が直接そこに関与することは稀ではあれ、研究活動では新規性、独自性が必須とされ、人がやったことをなぞっていても意味がない。盗用はそれだけで研究の瑕疵となり、研究者は資格を失う。そこに附属し、その前段になる学部においても、盗用は許されない」といった説明が正しいと思うのですが、現に私はこんなことは大学で教えられたことがなく、だったら教える意味があるのではないか。

「高校までの集団意識の中でのカンニング」→「大学でのカンニング」「大学でのレポートの盗用」→「卒論での盗用」→「大学院での修士論文・博士論文の盗用」→「研究者の論文での盗用」という流れを仮想した時に、多くの人はどこかでその流れを断ち切ることができるのだけれど、それができない人たちがいるのではなかろうか。

深井智朗の場合、その流れが50代になるまで切断されずに温存されたわけではないでしょうし、勝海麻衣もその流れからは逸脱しすぎていて、この2人のケースは個人の問題が大きいと思われますが、学部生の盗用については、少なからずこの流れにありそうです。であるなら、それを切断した方がいい。

 

 

学部で教えていいはずの学術ルール

 

vivanon_sentenceネット上で公開されているものをざっと見た範囲で言えば、これについて正確に説明した文章を出しているのは大学院だけでした。

東京大学大学院教育学研究科「信頼される論文を書くために」(上の図版)は適切に著作権侵害と研究分野のルール違反とを区別して説明をした上で、論文の書き方を指導する内容です。

ここでは「勉強と研究」「レポートと論文」の間に一線を引いていて、新規性は後者にのみに求められると読めます。それで間違っていないし、院生に向けてこれまで通用してきた考え方を変えることを求める趣旨ですから、そこに線引きするのはわかりやすいのですが、レポートにおいても先行者を尊重し、自身の考えと他者の考えを区別するのは当然であり、学部の段階で新規性を求めるような学科もあるのですから、この内容は学部向けにアレンジして教えていいと思います。卒業論文は一般の論文とは位置づけが違いますが、一応論文なのですし。

また、神戸大学では研究者向けに「学術研究に係る 不正行為の防止に向けて」と題されたパンフレットを発行し、院生向けに「レポート・論文作成時の盗用・剽窃に関する注意」 を出しています。後者でも著作権法と研究のルールの別を踏まえた説明がなされています。

これらは「研究分野」でのガイドラインですが、大学に入ってすぐにでも教えていいことじゃないでしょうか。教員によっては学部で教えているのもいるでしょうが、おそらく稀です。

 

 

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