松沢呉一のビバノン・ライフ

普通の人が普通の部分を残しながら普通ではないことができる仕組み—ルドルフ・ヘス著『アウシュヴィッツ収容所』を読む[6]-(松沢呉一)

ヘスも収容所から脱出できなくなった—ルドルフ・ヘス著『アウシュヴィッツ収容所』を読む[5]」の続きです。 

 

 

 

見たくないものは見ない

 

vivanon_sentenceヘスの上にはテオドール・アイケがいて、その上にはヒムラーがいて、その上にはヒトラーがいます。ヒトラーは一度も収容所に足を運んだことがない。ヒムラーはたまに処刑現場を見ると卒倒しそうになる。ヘスは鞭打刑も正視できない。

心をもつ人間たちがそのことを意識しないでいられる仕組みが作られていて、だから、「毎月あと千人送り込める施設を作れ」「今月中に収容者を千人減らせ」と数字で命令ができる。

ナチスだけでなく、戦争はしばしばこういう構造によってなされていきます。ヤクザもそうです。「堅気のものに迷惑をかけるな。シャブには手を出すな。女で商売をするな」と言いながらも上納金はしっかり徴収する。下っ端はそれをクリアするためにシャブや女で商売するしかない。

しかし、時には現実を見てしまったがために残虐なことをやったケースもありました。収容所によって構成は違うわけですが、アウシュヴィッツでは、ユダヤ人と捕虜の次に多いのはジプシーでした。ある段階までは、です。

ジプシーの場合は劣等民族として捕らえられたのではなく、むしろヒムラーは、ジプシーをゲルマン民族の源流に近い人々としてとらえ、生活様式や習慣が古いまま保存されていると考えており、混血を嫌うナチスとしてはジプシーは自分らよりも純粋とも言えて、ヨーロッパのジプシーを集め、調査した上で、その居住地を作る計画だったらしい。天然記念物が死に絶えることを防ぐようなものです。

そのため、アウシュヴィッツでは家族が住める施設に入れられていて、ユダヤ人よりも恵まれた環境にあり、ユダヤ人の最終解決が始まって以降も、ユダヤ人とは扱いが違っていたのです。

ところが、1942年7月、ヒムラーがアウシュヴィッツを訪れ、ジプシーを見た際に、子どもらが病気になっていて、死亡率が高いことを知って、働ける者以外をすべて抹殺するように命じました。ユダヤ人と同じ扱いってことです、この場合は、おそらく汚いものを見たくなかったのでありましょう。子どもが病気でバタバタ死んでいくくらいなら殺してしまえと。

根幹は一緒。見たくないものは見ない。

このあとユダヤ人の最終解決が始まり、ジプシーも同じ扱いになります。

戦争が終わってナチスの幹部たちが裁判にかけられ、アウシュヴィッツの写真を見せられて、目を背けたという話がありますが、誰しも殺すところは見たくなく、収容所の担当じゃなけれぱまじまじと見たことがなかったのだと思います。想像もしないようにしていたのでしょう。自分らが命じたくせに。

※右から二番目がルドルフ・ヘス。その向こうで少し顔が見えているのはベルゲン・ベルゼン強制収容所所長のヨーゼフ・クラーマー(Josef Kramer)、その左は人体実験を行ったヨーゼフ・メンゲレ(Josef Mengele)、その左はアウシュヴィッツ収容所の最後の所長リヒャルト・ベーア(Richard Baer)。処刑されたのはヘスとヨーゼフ・クラーマー。ベーアは戦後ドイツ国内に隠れていて、1960年に逮捕されますが、裁判の前に獄死。メンゲレは南米に逃げて、1979年まで生きました。この写真はベーアの副官だったカール・ヘッカー(Karl-Friedrich Höcker)所有のアルバムにあったもの

 

 

感情が漏出しない文章

 

vivanon_sentence責任者であるヘスはそれでもまったく現場を見ないわけにはいかず、要所要所でその体験を語っています。

それらの体験についての記述では、鞭打ちの描写で見られた自身の感情を前面に押し出すようなところがなくて、「これは立ち会ったのではなくて、聞いた報告を書いているのではないか」とも疑ったのですが、自身が見たものであることの断りを書いています。対象を傍観するだけでなく、そこにいる自分をさらに傍観するような逃避的心理でそれを乗り越えたのかもしれない。離人症のような状態です。

アウシュヴィッツで最終解決、つまり、体が弱って労働力として使えない老人、病人を殺し、抵抗者や脱走者を殺すだけではなく、移送されてきた全員を虐殺することが実行されていくのは1942年春のことでした。

 

 

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