松沢呉一のビバノン・ライフ

ヘレナ・チトロノヴァとフランツ・ヴンシュ/歌が救った命—収容所内の愛と性[1]-(松沢呉一)

ルドルフ・ヘスが死を前に考えたこと・娘のブリジットがヘスの死後考えたこと—ルドルフ・ヘス著『アウシュヴィッツ収容所』を読む[13](最終回)」からゆるくつながってます。

 

 

 

ヘレナ・チトロノヴァとフランツ・ヴンシュ

 

vivanon_sentence夫婦や恋人同士で収容された人々もいましたし、収容所の中で知り合って恋に落ちた人々もいました。二人で逃亡して捕まって処刑された人たちや。男同士で電流の流れる鉄条網に突っ込んで自殺した人たちもいました。

あってはならないはずのナチス党員と収容者の恋愛、あるいはセックスも行なわれてました。ルドルフ・ヘスとエレオノーレ・ホーディーズがそうですが、それだけではありません。

以下の話が初めて公になったのは1970年代の裁判でのことでしたが、1996年に、BBCがドキュメンタリー番組の中でこれを取り上げて、広く知られるようになったようです。

 

Auschwitz:The Nazi and the Final Solution

 

これを単行本化したのが以下。

 

 

 

「カナダ」に配属されたヘレナ・チトロノヴァ

 

vivanon_sentenceこの映像に出ているヘレナ・チトロノヴァ(Helena Citrónová/スロバキア語で何と読むのかわからないですが、BBCではこう読んでいるので、それに合わせます)はユダヤ系スロバキア人です。彼女は1942年3月、アウシュヴィッツ収容所に入れられます。

彼女が配備されたのは「カナダ部門」でした。アウシュヴィッツでは、その部門ごとに通称がつけられ、どういう由来からか、「カナダ」は収容されるユダヤ人の所有物の没収と整理係で、これはおもに女の収容者が担当します。

ここで没収した宝石や時計、毛皮などはドイツに送り、販売しました。ユダヤ人の土地や家もそうですが、国家的なかっぱらいです。いいものが安く手に入るというので、ドイツ人は列をなして販売を待ちわびました(探すとドイツ人たちが群れをなしている写真が見られます)。

「カナダ」の担当は収容者の中では特権階級であり、服装も他よりましで、例の収容服ではない服を着ることもできましたし、彼の毛を伸ばすこともできました。この担当は新たにユダヤ人たちがアウシュヴィッツに移送されてきてすぐに接することになるので、あまりにみすぼらしい格好をしていると不安にさせるためでしょう。

それだけでなく、彼女らはタバコや酒をくすねることができました。そんなもんはドイツに送るほどではないので、おそらく大目に見られていたのでしょうし、監視する看守もまたくすねていたので、ここは持ちつ持たれつ。これらの物資によって収容所の中では闇市場が形成されていました。

その点でチトロノヴァは始めから不幸の中での幸運を得てました。

 

 

歌で救われた姉妹

 

vivanon_sentence「カナダ」に配属されたその日、彼女はナチスの親衛隊員であるフランツ・ヴンシュ(Franz Wunsch)の誕生日会で歌を歌うことを命じられます。ドイツ語のWunschは「希望」「願い」という意味です。

前に書いたように、異常と言っていいくらいにドイツ人は音楽が好きなのです。だから、音楽家の収容者たちによるオーケストラが結成され、収容者たちが労働に向かう時は音楽で送り出し、戻ってくる時は音楽でねぎらう。オーケストラのメンバーは強制労働を免除され、衣食住にも恵まれていました。効率で人を殺していくナチスにとっても、これは無駄とは思われない。

親衛隊員の誕生日にもオーケストラは駆り出され、それをバックに彼女は歌ったのでしょう。

ヴンシュは18歳で親衛隊に入り、東部戦線で膝を負傷して、アウシュヴィッツに配属されます。彼は出世が早く。カナダ部門ほかを任されていて、この時20歳。チトロノヴァの数歳下です(彼女の正確な年齢は不明です)。

チトロノヴァが歌い終えると、ヴンシュが近づいてきて、紙片を彼女に渡しました(クッキーとともに、と書いてあるものもある)。そこには「歌を聴いてあなたに恋をしました」と書かれていました。ヴンシュはユダヤ人に甘い人間ではなく、心底、ユダヤ人を憎み、彼の早い出世もそれを示唆してましょう。しかし、歌で恋をしたのです。

音楽好きのドイツ人ならではかもしれない。ユダヤ人は軽蔑していても、ユダヤ音楽が好きで、深夜こっそりオーケストラの演奏を聴きに来ていたことがバレて最前線に送られた親衛隊員もいたくらいで。

しかし、チトロノヴァにとって親衛隊は自分らを殺す人間たちですから、それを受け入れるくらいなら「死んだ方がまし」と考えて、紙を破り捨てました。

 

 

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