松沢呉一のビバノン・ライフ

ドイツ軍と闘ったボーランド兵が懲役15年の判決になる無情—収容所内の愛と性[8]-(松沢呉一)

ナチスに抵抗した人たちがベルゼン裁判の被告になった—収容所内の愛と性[7]」の続きです。

 

 

ドイツ軍と闘って負傷し、捕虜になって脱走し、捕まってもなお生き延びたポーランド人にベルゼン裁判がやった仕打ち

 

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国単位で見た時に、ナチスドイツにもっとも虐げられたのはポーランドでしょう。知識階層や歯向かう者たちは虐殺され、使える人間はドイツに送られて労働を強いられ、アーリア系の子どもは誘拐されました。

ナチスにとってポーランド人はユダヤ人のように抹殺の対象ではなかったにせよ、家畜扱いです。そんな家畜と一緒に住んでいただけでドイツ人も逮捕の対象だったのは前回見た通り。

不思議なことに、ベルゼン裁判で被告になった収容者11人にはポーランド人が6名も含まれています。もう一人、別裁判で死刑になったカポを入れて12名としても半分がポーランド人なのです。

カポはドイツ人が優先的に任命されましたから、カポになるポーランド人は少なかったはずです。なのになぜポーランド人が収容所の所長と並んで被告になったのか。ここが私は気になって、全員の裁判記録を読みました。ポーランドにはポグロムの歴史があって、ユダヤ排斥でナチスに共感した人々がいたのも事実であり、ナチス支持のポーランド人、民族ドイツ人のポーランド人の中から、犯罪者をカポに任命するようなことがあったのではないかとも想像したのですが、収容所の中でも彼らは蔑視され、戦後もまた蔑視され続けて罪を押しつけられたとしか思えませんでした。

ウラジスラフ・オストロフスキ(Vladislav Ostrowski)は1914年生まれの画家です。

ドイツ軍のポーランド侵攻に伴って、ポーランド軍に徴兵されますが、1939年9月18日に負傷。ドイツのポーランド侵攻が始まったのは9月1日のことですから、侵攻が始まってすぐです。銃器も使い慣れていなかったのでしょう。

続いて東から赤軍が侵攻して、ポーランドはわずか1ヶ月で制圧されてドイツとソ連の支配下に分断されますが、以降もレジスタンスが続いて、翌年4月にウラジスラフ・オストロフスキはドイツ軍の捕虜となり、4カ月間はポーランドのウッチ(Łodzi)にあるゲシュタポの施設に、続いて7ヶ月間、ラドゴシュチ(Radogoszcz)にあったドイツ警察の施設に収容されます。

1942年に逃亡し、ベルリンに潜伏します。この頃、ドイツにはポーランドから連行された労働者たちが多数いたので、その中に紛れ込んでいたのではなかろうか。

1944年10月20日、ゲシュタポに逮捕され、ベルリンのモアビット(Moabit)刑務所に入れられ、数日後、グロース・ローゼン強制収容所(Konzentrationslager Groß-Rosen)に収容されます。1945年2月6日、ミッテルバウ=ドーラ強制収容所(Konzentrationslager Mittelbau-Dora)に移送され、4月10日、ベルゲン・ベルゼンへ。

親衛隊の一部が撤退したのは4月12日、英軍が解放したのは4月15日です。

Vladislav Ostrowski

 

 

冤罪の可能性が高そうなのに懲役15年

 

vivanon_sentence細かく書き出したのは意味があります。

彼が暴行するのを見たという証言はいくつかあるのですが、そのひとつはドーラからベルゲン・ベルゼンの移動中で暴行したのを見たとの証言です。極度のストレス状態ですから、収容者同士の衝突があってもおかしくないですが、これはカポとしての暴行だという証言です。しかし、この彼の経緯を見ると、カポになる余地がないのです。

彼は「それは嘘です。私はカポになるには短すぎた」と言ってます。そりゃそうです。ドーラにいたのは2ヶ月で、しかも、その間にも内部での移動があったと言ってます。その前にカポ体験があったりすればまた別でしょうが、それぞれ期間が短すぎます。

 

 

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