松沢呉一のビバノン・ライフ

オーケストラを結成した女看守の教育長マリア・マンドル—収容所内の愛と性[20]-(松沢呉一)

人の皮膚を使ったランプシェイドは謎だらけ—収容所内の愛と性[19]」の続きです。

 

 

 

 女看守による虐待はマリア・マンドルの影響か?

 

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改めて説明するまでもないことですが、私は「女がそんな残酷なことをするはずがない」なんてことは思ってもいません。何人か男の親衛隊員や収容者を取り上げてきたように、男もまた不当と思える起訴や判決を受けているのが少なくありません。しかし、女はおそらく逃げられなかったために、不当に逮捕され、裁判を維持するため、不当に残虐性を誇張された可能性が高く、ことさらにサディストと形容されたと私は見ていて、その結果、このシリーズでは女の方に偏りが出ています。

女も条件が揃えば残虐な行為を笑いながらできるし、生来のサディストとしか言いようのない人たちがいることは、女王様方にさんざん教えてもらってます。

他の仕事では得られない権力を得て、なおかつ業務として暴力を駆使していいのだとなれば、喜んでそうするのがいたことは容易に想像でき、時には殺すことにも抵抗をなくすのもいたであろうことを私は否定しません。

女が男と同様、不正をした収容者に暴力で制裁をし、収容者につねに恐れられる存在として女看守を育て上げたのはマリア・マンドル(Maria mandl)かもしれない。

この人です。

 

Wikipediaよりマリア・マンドル

 

ここではMandelになっていて、MandlもMandelもどちらも使ったらしい。

イルマ・グレーゼほどではないですが、反抗的な表情にも見えます。

 

 

鞭をもった女看守

 

vivanon_sentenceマリア・マンドルは1912年、オーストリア生まれ。写真ではもっと老けて見えますが、逮捕時33歳。裁判のフィルムを観ると年相応で、彼女は逃亡の末捕まっているため、逮捕時は疲れが出ていそうです。

彼女は結婚していた時期があるようですが、収容所で働き出してからは独身。

1938年にリヒテンブルク強制収容所(KZ Lichtenburg))で働き始め、1942年に女看守の教育長に就任し、以降、おもにアウシュヴィッツで働いています。教育長という役職は彼女だけではなかったようですが、女看守のトップであり、女看守を教育し、監督する役割でしたから、彼女のやり方を下は真似たはずです。

女看守たちの中には鞭を持ち歩き、それで収容者を叩くのがいました。鞭の使用はある段階で禁止されていますが、これはマリア・マンドルが得意なやり方で、鞭を最初に使ったのはマリア・マンドルかもしれない。

ゲシュタポは一本鞭ですが、イルマ・グレーゼは裁判で乗馬鞭を持っていたと証言しています。

一本鞭と乗馬鞭では、虐待しても、懲役1年と5年くらいの差がありますので、どっちかはっきりして欲しいものですが、私用の鞭を持ち込んだのであれば乗馬を趣味とする人が多かったドイツでは、乗馬鞭の方が無理がないようにも思います。映画では女看守は一本鞭を持っていたりしますが、あれは見栄え、使用した時のダメージ、音などの効果で選択されたのではなかろうか。

とくに懲罰というわけでもなく、彼女は収容者をペットと呼んで虐待を繰り返し、ガス室送りにする手続きを踏まず、殴打して殺すなど、直接の殺害もやっていたとされます。といったエピソードには事欠かないのですが、この人の裁判資料までは読んでないため、これもどこまで事実なのかは不明。

獣という呼称はイルマ・グレーゼより先に、収容者たちがマリア・マンドルにつけたものでした。

彼女はガス送りの選別にも関与し、人体実験の選別にも関与。総計50万人の虐殺に関わったと言われます。彼女がすべて決定したというより、書類に目を通したといったレベルのものを含めての数字でしょうけど、列の警備、書類の整理という作業に関わっていただけで処刑されている人たちがいるのですから、直接関与していたとあっては、虐待がどうあれ死刑は免れない。

Maria Mandl (left) 撮影時期が不明ですが、この写真は若い頃かと思います。

 

 

 

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