松沢呉一のビバノン・ライフ

消えているのは歴史だけではない—メディアをめぐる不可解な現実[3]-(松沢呉一)

テレビから歴史が消えていく—メディアをめぐる不可解な現実[2]」の続きです。

 

 

 

謎は解明されたけれども

 

vivanon_sentence「ビバノンライフ」でも、歴史ものはアクセスが顕著に減ります。どうしてこうも読まれないのか、ずーっと不思議でした。どんなものでも、長いシリーズは回数を経るごとに読まれなくなっていく傾向はありますが、歴史ものは短くたって読まれない。

エロやグロの入ったものと伊藤野枝以外、歴史ものは壊滅です(伊藤野枝と大杉栄と神近市子の関係もエロやグロかもしれない)。ナチス・シリーズは誰でも知っている大物が次々出てくるので読む人がいるだろうと思ったら、これもイマイチでした。ナチス関係の大物についてはネットにいくらでも出ているし、まったく知られていない人物だと読む契機がないってことかとも思っていたのですが、歴史そのものが受けないらしい。

ナチスや遊廓関係、また、安藤明あたりはまだしも調べる人がいるので、のちのち検索で入ってくる人がいて、まったくの無駄ってわけではないのですが、歴史もののほとんどは無駄。

歴史を取り上げても需要がないのでもうやめようと思いながらも、ついやってしまいますが、ナチス・シリーズが終わったら、今度こそやめます。と思いながらもたぶんまたやります。やらないではいられない。

私の選択や書き方に問題があるのかとも思っていたのですが、テレビも一緒だったのです。すべてのメディアに共通する特徴かもしれない。さっと見てさっとわかった気になりたい空気が蔓延していて、時間軸を移動することさえかったるいと感じる時代。

関東大震災の朝鮮人虐殺を否定する人たちがいることは、以前からある歴史の改竄の延長だと見なせますが、矯風会をフェミニズムの歴史に位置づけることに抵抗のない人たちが出てきたこと、プライドパレードからパレードの始まりであるプライドを消し去る人たちが出てきていることなど、新たな「歴史観なき人々」の行動がさまざまなジャンルで目立つようになってきていることとメディアから歴史が消えつつあることはおそらくリンクをしています。

※中学生の時、時代劇の中では「木枯し紋次郎」がダントツで好きでした。テーマ曲である六文銭の「だれかが風の中で」はマカロニウエスタンぼくて、懐メロが嫌いな私もたまーにカラオケで歌います。私のテーマソングとまで言っていた時期もあります。唐突に終わるラストもいいんですよ。

 

 

踏み込むことができない時代に

 

vivanon_sentenceそのテレビ局員はこうまとめてました。

「テレビでは、もう一歩踏み込むことができなくなってます」

歴史はそれ自体、もう一歩踏み込むことです。

時間軸に沿った踏み込みだけじゃなく、すべてにおいて「広く浅く」が受ける番組づくりの鉄則で、局内では「広く浅く」が推奨され、「狭く深く」はできにくいんだそうです。

新聞やテレビが報道したことを深く週刊誌がとりあげ、さらに深く月刊誌が取り上げ、それを単行本にまとめるという役割分担があったわけですが、月刊誌が消え、週刊誌も消えつつあって、テレビレベルでの「深く」もできなくなり、「広く浅く」だけが残る。

それでも映画や本であれば、狭く深くを求められます。テレビほど大きな数字が対象ではなく、少ない数の「狭く深く」の人たちを相手にできますから。

ところが、それも怪しいという話があります。出版でも深く突っ込むものは売れない。新書程度の深さ、あるいは浅さが限度。私も新書をよく読みますが、これは老眼のためです。新書だったら老眼鏡がなくても、文章も内容も平易なので勘で読めます

 

 

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